10/21(木)の決定事項など
 
 11月度の活動は、「赤い羽根募金」に重点を置きます。
 
 
☆そもそも、ただ意味もわからずに「募金だ」といってお金を集めるのはおかしいと思うのです。それは、あやしげな宗教を盲目的に信じて暴走してしまうのと似ているのではないか。
 戦後ながく続いてきた「赤い羽根」の心・想いを知り、それに賛成できるならば自分の所持金の許すことのできる範囲で寄付をする。
 これが募金のあるべき姿だと想うのです。
 極論すれば、意味を知らずに100円を出すよりも、意味を十分に理解して1円を募金するほうがずっと尊いと思うのです。
 意味など考えずに、ただ金を出す。
 それでは札束で頬をはたくような行為になりかねない。
 それは決して「ちいしん」ではない。

 できるだけ多くの人に「赤い羽根」は何なのか、学んでほしいと思います。
 そのための良い企画を、考えてみてください。
 
 
11月中に、赤い羽根募金キャンペーンを行う
 (1) 3年生中心に、校内放送を実施する
 (2) 各クラスの実情に沿った企画を実施する
 
☆(1)については3年のメンバーで企画を進めてください。「赤い羽根」の意義について堂々と解説をしてもいいですし、ラジオドラマのようなものでもいいと思います。
 より良いものにするための依頼は、どんどん行ってください。教職員に声の出演をお願いするのもいいと思います。1、2年生でも参加したければ先輩のもとに駆けつけてください。
 
☆(2)については、各クラスのちいしん委員でよく考えて、クラスメートがより納得できるようなものにしてください。朝の読書で時間をもらって発表をするのもいいでしょう。ポスターを描いて貼るのもいいでしょう。社会や国語で習ったように、壁新聞を作ってもいいかもしれません。
 
 
次回の委員会予定は11月4日(木)です。
 
赤い羽根募金の具体的な企画について。
GOサインかリテイク(=やり直し)かの確認をします。
 発表ならば、その原稿や理解を助けるプリントなど。
   (印刷用原稿用紙を希望するなら職員室へ)
 ポスターならば、下書きデッサンなど。
   (画用紙を希望するならば職員室へ)
「赤い羽根募金」のページ http://www.akaihane.or.jp/index2.html
 
 
「ちいしん」ができるかできないか、それは「勇気」です。
 みんなが夏休みの作文で書いたとおり。前進しよう!
 
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10月1日から12月31日までが、いわゆる「赤い羽根募金」の期間である。だいたいの学校は、おそらく10月中に終わらせてしまうのではないかと思う。
 ぱーっと羽根を配って、ぱーっと集金して終わる。
 それに対して、そこはかとない違和感を覚えてきた。
 
 ものすごく乱暴に言えば。
 中学校が集める募金なんて、金持ちが税金対策に出す金より遙かに少ないだろう。
 街角に立つよりも「企業イメージアップ」を訴えてまわったほうがより効率がいいのではないだろうか。
 
 けれど、それでは意味がない。
 
 学校という施設で行われることは、徹頭徹尾、教育でなければならぬ。
 なれば、「赤い羽根募金」も学習を仕組まなければならない。
 
 今までは教室と校内各所にポスターを貼っていた。
 手作りのもので、それはそれで意義あることだとは思う。
 ただ、「何でもポスター」という雰囲気になりかけている気がした。
 
 放課後の委員会で、わたしは「皆が学ぶ募金を」と呼びかけた。
 
 ポスターを描こう、という意見が出た。
 各クラスで発表をしよう、という意見が出た。
 さらに。
 放送委員と連携をとって校内放送をしようという案が3年生から。3年の委員全員でやってみる、というのである。
 
 正直、意表をつかれた。
 「委員会」なのである。そこまで積極的な姿勢を見せるとは思っていなかった。
 
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 その夜に職員室で文章を書き、来なかった委員を含め全員にプリントを配布する手配をした。
 
 善意が必ずしも順調に広がっていくとは限らない。
 見事に砕け散るかもしれないが、行き着くところまで行ってみようと思った。
物語のテーマを読みとる、ということ

――もうひとつ、“誰も見たことのない世界を見せる”楽しみもあるのでは。作中、エドが“真理”をかいま見るシーンがあります。でも真理なんて、実際には誰もビジュアルとして見ることはできない。
「そうなんですよ〜。絵コンテの段階で“こんな感じか?”って、自分なりのイメージをモヤモヤした絵で描いたんですが、いざ作画に入ると“どうしよう、どうしよう、どうしよう”……。締切の日まで、そのページだけ残したまま考え込んでいましたね」

――しかもあのシーン、まだ続きがありそうな気配が。
「ふふふ、どうなるんでしょうね……」

 テレビアニメは10月2日に最終回を迎えるが、コミックのほうは「そろそろ折り返し地点かな、という段階」だそうだ。今後展開するエピソードの伏線も、絵の中にちりばめてあるという。どうやらハガレンは、まだまだ錬成途上。いったいどこまで輝きを増していくのか、まぶしさに眩みながらも目が離せない。
 
 
 
■鋼の錬金術師

 先日、テレビアニメの『鋼の錬金術師』が放映終了した。

「人は何かの犠牲なしに何も得ることは出来ない。
 何かを得るためには同等の代価が必要となる。
 それが、錬金術における等価交換の原則だ。
 その頃、ボクらはそれが世界の真実だと信じていた。」

 テレビ『鋼の錬金術師』でのOPでのナレーションだ。これを始めて聞いた時、すごい「引き」だと思った。
 世界の真実とは何か、信じていた、と言うのならば、今は違うのか、そんな疑問を抱かせることにより、よりこの物語に引き込まれる。

 しかし、等価交換が原則だと言いながら、母を取り戻そうとし、失敗した上、体を失い、それでも何も得なかったと主人公のエドは言う。そして、それからも差別も目の当たりにし、多くの人が錬金術により犠牲にされ、理不尽な世界を見つめていく。さらにエドたちは、賢者の石を望んでいる時には見つけられなかったのに、ほしくないと思った時に手に入れてしまう。

 そして、敵対するダンテにも言われてしまうのだ。
「同じ代価を払っても同じものが得られるとは限らないわ。国家錬金術師試験ってあったわね。それに通るために何人もの人が勉強に時間を費やす。それは代価。――でも、実際に通るのはほんの一握り。そもそも錬金術は同じように学んでも、その実力には大きな差が生まれる。」

 等価交換が子供の理屈だと思い知らされても、エドたちは信じていたい。

 最終回、ナレーションをしていたアルは最初のナレーションと同じことを言う。
 そして、続ける。

「でも、本当の世界は不完全で、そのすべてを説明する原則なんて存在しなかった。等価交換の原則も。
 それでもボクらは信じている。
 人は代価なしに何も得ることは出来ない。
 ボクらが受けた痛みは、きっと何かを得るための代価だったはずだ。
 そして、人は努力という代価を払うことで、必ず何かを得ることが出来ると。
 等価交換は世界の原則じゃない。
 いつかまた会う日に交わした、ボクと兄さんの約束だ。」

 等価交換。それはこの物語のテーマだったのだ。
 
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 web上から引っ張ってきた文章を学級通信の記事にした。
 
 わたしは思う。
 評論や随筆とは、教科書に出てくるだけではない。ありとあらゆる分野に存在する。もちろんテレビやアニメについて書かれたものもある。
 
 生徒たちに、ものごとを客観的に表現できる力、分析する力をつけてほしい。
 それが「生きる力」ってモノだと思う。
 
 ごくたまには理屈抜きで「萌え」言ったって構わないが、いつもそれだけで終わっていたら何も広がっていかない。閉じて硬直して排他的な思考に陥るばかりだ。
 
 なぜ好きか。
 なぜ良いか。
 「自分の思いを他者に伝える能力」を身につけようとせずに、「わかってくれない」とは片腹痛い。
 顔文字を使わずに自分の述べたいことを書け。
 
 そのためには、毎日の地道な訓練が必要だろう。
 勉強、ってヤツである。
 
 信念の道を往く孤高と。
 他者との会話を億劫がる怠惰とを。
 はき違えないでいただきたい。もったいないから。
私はね、世の中はそんなにひどいことばかりではない、と思う

――やむにやまれぬ理由があるにしても、放浪の旅というのは、読者の子どもたちにとってはあこがれだと思います。荒川さん自身も子どものころ、放浪願望があった?
「放浪というか、“あっちへずっと歩いて行ったら、どうなっているんだろう”なんていうのはありました。農地の中に、山がありますよね……って、あるんですよ山が(笑)。で、“これをこえたら、海が見えるかな”と思って、登ってみたらまた山で、ちくしょー、みたいな(笑)。今も、もし車を与えられたら、どっか行っちゃうと思う。日本の端から端まで、地続きのところは全部行っちゃうだろうなあ。でもそういうことは、自分の家がちゃんとあるから、安心してできるんだと思う」

――エドとアルは、戻れる場所を自分から消してしまいます。
「でもね、『オレたちに帰るところはない』と言ってますけど、実際には故郷に帰れば迎えてくれる人がいる。本人たちは気づいていないだろうけど、周りの人たちが支えてくれていて、だから彼らも頑張れるんですよね」

――そうした救いを用意したのは、描いていて作者がつらくならないように?
「いえ(キッパリ)! 私はね、世の中はそんなにひどいことばかりではない、と思うんですよ。テレビなんかの報道を見ると、孤独感を持つ子どもが最近多いみたいだけど。でも、大人は子どものことを無視しているわけじゃなくて、見るところはちゃんと見てる。うん、大人はちゃんと見てますよ」

――それも、これまでの人生経験から?
「農村で育ったから、大人がいつも身近にいたんです。学校帰りに農道を歩いていると、どっかに必ず農作業してる大人がいて、声をかけてくれる。働く大人が常にそばにいて、子どもたちはそれを見て育つ。忙しい時期には子どもも農作業にかり出されて、文句言いながら手伝って。そういう土地柄だったので、“大人はちゃんと見ていてくれるな”という実感は、小さいころからありました」

 本作の特徴のひとつは、悲惨なエピソードを重ねる中で、生きることを力強く肯定していること。時に絶望的なシーンがありながらも、決して読者を追い込むことがない。

――シリアスなシーンが続いても、必ずどこかに爆笑ギャグが挿入されますね。
「息づまる展開ばかりだと、読んでいて苦しくなってくるでしょうから。エンターテインメントだから、やっぱり楽しく読んでもらいたいんですよ。自分が子どものころに読んだ漫画を思い返すと、楽しく読めたものと、そうでなかったものがある。私は精神的にドロドロした漫画って、読んでいるとキツくなって楽しめなかった。だから自分が描くときは、子どもの時に何が面白かったか、というのを思い出すようにしています」

――どんな漫画を読んでいたんですか。
「何でもアリでしたね。姉が『少年ジャンプ』と『週刊マーガレット』を読んでいて(笑)、さらにいとこがたくさんいるので、あらゆるジャンルの漫画がそのへんに転がっていた。特に肌に合ったのは、『少年ジャンプ』と『少年サンデー』かな」

――漫画家になろうと思ったのは、いつごろですか。
「小さいころから、漫画なり絵なりで食べていけたらいいなあ、と思っていた。学生時代は、いわゆる“教科書の落書き”レベルだったんですが、卒業後は実家の農業を手伝いながら油絵を習ったり、歴史好きの友だちと『三国志』の同人誌を作ったり。ライターをしている友人に誘われて、競馬雑誌に4コマ漫画を描いたりもしました。でも、本格的なストーリー漫画を描いたのは、デビュー作になった投稿作品が初めてです」

――小説などとは違う漫画の面白さに“絵で見せる”というのがあります。ハガレンでは、背景にさりげなく描き込まれたものが、物語の伏線になっていたりする。
「ふふふ……。そういうものを仕込む楽しみって、ありますね。後のエピソードで、それがきれいにつながると気持ちいい。伏線に気づいてもらえなくても支障はないんですが、たとえば2回目に読んだ時“あ、これは”って思ってもらえたら“してやったり!”。逆に、自分で1巻から読み返して“あ、これ伏線に使えるじゃない”と思うこともあって。そういう時は、過去の自分をほめたいですね(笑)」
 
 
(つづく)
どんなことでも、時間をおいて振り返ると、ちゃんと糧になっている。

 “ハガレン”をご存じだろうか。放映中のテレビアニメが大人気の『鋼(はがね)の錬金術師』のことだ。超人的な錬金術を駆使する兄弟が主人公の、異世界ファンタジー。ファンは親しみをこめてハガレンと呼ぶ。
 原作は、2001年から「少年ガンガン」に連載されているコミック。単行本は現在第8巻まで刊行され、累計1200万部。続刊を待ちこがれるファンは巻を追うごとに増えている。ベテランの手になる作品かと思いきや、荒川弘さんは連載開始時点でデビュー2年目、これが初連載だったという。コミック史に残るだろうゴールデン・ヒット作を生んだ、彼女の“錬金工程”とは?
 
 
荒川弘 Hiromu Arakawa
 北海道生まれ。「STRAY DOG」が、「少年ガンガン」の第9回21世紀マンガ大賞にて大賞を受賞。1999年、「少年ガンガン」8月号にて同作品が掲載されデビューを飾る。 2001年、「少年ガンガン」8月号より「鋼の錬金術師」の連載が開始。同作が2003年10月よりMBS・TBS系全国ネットで連続テレビアニメ化される。『鋼の錬金術師』は、2004年、第49回(平成15年度)小学館漫画賞少年向け部門を受賞。さらに、2005年夏には映画版が公開される予定。
 
 
――初連載がいきなり爆発的大ヒット。新人作家が連載を持つにいたった経緯は?
「最初は読み切り作品の予定だったんです。でも、絵コンテを担当編集者に送ったら、“これは連載にしましょう”と。一話完結のストーリーなのに“どうすりゃいいのよ!?”(笑)。半月くらい転げ回って、連載にするための構想を考えました」

――それから4年目の今、次々に現れる人物が複雑に絡み合い、物語世界はどんどん広がっています。
「連載を開始するにあたって、まず考えたのが最終回の大体の構想。テーマはすでにあったから、結末が決まれば、あとはそこにいたるまでに何が必要かを考えればいい。その部分は、連載しながら進めていきました。今、最終話までのエピソードは用意できています。ただ、物語が進むにつれて主人公が成長している。だから、それぞれのエピソードに来た段階で、彼らがどんなリアクションをするのか、それは私にもまだわかりません」

――最初の段階ですでに決まっていたテーマとは?
「何かを欲するならば、それと同等の価値のものを差し出さなければならない、ということ。作品の中では『等価交換』と言っています。錬金術についての本を何冊か読んでいたら、この言葉に出会った。これはいけそうだな、と思いました。ネタが“降りてきた”瞬間です」

――琴線に触れたわけですね。もしや等価交換の法則を、それまでの人生で実感していた?
「それはあるかも(笑)! 実家が北海道の酪農家なんです。農家の仕事って、やればやるだけ返ってくるし、さぼればその分、最後に苦労する。ウチの先祖は開拓民として北海道に渡ったんですが、当時の話を伝え聞いても、等価交換、まったくその通りで」

――ハガレンの源は酪農だった、と。
「“働かざる者、食うべからず”がウチの家訓ですから(笑)。でも実際、過去の悲しいことやいやなことが“ああ、今の自分にプラスになっているな”と思えることってありますよね。どんなことでも、時間をおいて振り返ると、ちゃんと糧になっている。そういうことは、ずっと感じていました」

 ハガレン世界における錬金術の掟、それが等価交換だ。主人公エドワード(=エド)と弟のアルフォンス(=アル)は、亡くなった母をよみがえらせようと、禁断の人体錬成を試みる。だがそれは不完全なものに終わった上、大きな代償を払うことになる。エドは左足、アルは肉体そのものを失ってしまった。そしてエドは自分の右腕を代償にアルの魂を練成し、鎧に定着させた。すべてを取り戻すすべを見つけるべく、二人は旅路につく。戻るべき家を、自ら焼き払って……。
 
 
(つづく)
イチロー語録
 
「打撃論」

☆ヒットを打つことは、打てば打つほど、むずかしくなるんです。
 打撃はものすごく高度なテクニックを積み重ねていくわけで、全スポーツの中でも、かなりハイレベルな身体能力と技術を要すると思うんです。自分が、ちょっとずれを感じれば、10割のうち、3割を打つことも難しい。10回やって3回成功するのが、至難の業なんです。

☆ピッチャーが思い切り投げてくるボールを強く打ち返すためには、バットをなるべくしならせないといけない。特に、体が大きくない僕のような選手はそのしなりを利用しなければならない。
 長く続く強い発見は、凡打をして、その凡打の理由がわかったときなんです。
 
 
「結果とプロセス」

☆結果とプロセスの両方が大事。
 結果を出さないとプロの世界では生きていけないし、プロセスは、野球選手としてではなく、人間をつくるために必要。

☆偶然だけでは結果は出ない。結果を出すにはそれなりの理由がある。

☆僕はいつも一生懸命プレーしていますが、今日はよい結果が出なかった。
 でも、だからといって後悔もしていないし、恥ずかしいとも思っていません。なぜなら、できる限りの努力をしたからです。
 
 
「生き方」

☆面白いし、ドキドキできる。実際にはつらいし、苦しいが、つらく、苦しくなければドキドキしない。今しかできないとも思うから、しんどくてもやるのです。

☆大きさに対するあこがれや、強さに対するあこがれが大きすぎて、自分の可能性をつぶしてしまっている人がたくさんいる。そうではなくて、自分自身の持っている能力を生かすこと、それが可能性を広げることにもつながる。

☆第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい。

☆成績は出ているから今の自分でいいんだ、という評価を自分でしてしまっていたら、今の自分はない。
登校後すぐに全校集会。
のちにホームルーム。
期末試験結果の個票配布。
学級通信を配り、手短にルール変更について発表。
 
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良い成績を取るために

 いよいよ後期の開始である。
 全校集会ののち、期末試験の個票を配布した。

 期末試験での勝敗、良い点数であったか、悪い点数であったか、その原因は明らかである。
 勉強をやったか、やらなかったか。

 より具体的に言えば、このようになる。
 
 宿題を期限までにきちんと提出した者は良い点数を取り、期限を大幅に過ぎれば過ぎるほど惨憺たる点数を取った。
 
 この傾向が、中間試験の時には当てはまらないように見えた生徒も居た。
 おそらくクラス替えや教科担当が違ったことへのとまどいなどがあったのだろう。
 しかしそれでもあきらめず、歯を食いしばるような思いで地道に自宅学習を続けた者が、今回の結果を比較的良いかたちで終えることができたようである。
 途中で努力をあきらめてしまった者、油断をした者、これらは悔しい思いをしたのではないか。

「努力は裏切らない」
 これは時間が経てば経つほど動かしがたい事実となる。ここに明記しておきたい。

 もっとも、「宿題を終わらせることができない」ということすべての責任を、ひとりの生徒だけに負わせるのも酷な話である。

 各ご家庭それぞれでできることはないか、考えていただければ、とも思う。
 家庭学習をするための環境は、どれくらいできているか。
 兄弟姉妹がいっしょの部屋である場合、一方で遊んでいて一方で勉強する、というのはとても難しい。
 個々の部屋があっても、テレビ、パソコン、コミックなど、家庭内でルールが決められ守られなければ、勉強に取り組まない日々が続くこともあろう。 
 物の配置によっても、勉強への集中が変わってくる場合もある。勉強をする場所は、すっきりしているのがまず一番であるようだ。
 期末試験個票への書き込みは、そのようなことにも配慮が必要かもしれないと思う。

 もちろん、担任にも努力すべきことはある。
 前期に一番足りていなかったことは、他の教科では何が起こっているか十分につかめていなかった、ということである。
 
 前期、数量・図形・英語を中心として、各時間で課題・宿題が出されてきた。
 もちろん提出期限があり、それを過ぎれば「早く提出するように」という指示が出る。
 
 ある時、数量からその指示が出て、名前を書かれた教室掲示のプリントを渡された。
 たしか10数名ほどだったと思う。
 そのとき、「ずいぶん未提出者がいるな」と感じた。しかし、その紙に書かれた名前は提出した者の名前だった。
 期限を過ぎても未提出である者が多くて、書き出す生徒を逆にしたというのである。

 驚いた。ひたすら驚いた。
 けれど、担任ならば驚いていてはいけなかったのである。
 そのようなことが起こる前に、指示と徹底を為すべきであったのだ、と思う。
 
 
 後期より新たにふたつ、変更をしたい。
 
 まず、日直日誌の体裁を変えることにした。
 
 「本日の課題および提出期限」という欄をもうけて、その日に出された宿題と、いつまでにやるのかということを明記することにする。
 
 もちろん担任も教科担当とよりいっそうの連携をはかり、宿題についての記述が日直日誌に無かった、というようなことがないようにしたい。
 
 
 さらに、課題提出を延ばさないようにしたい。
 文化祭の後、「夏休みの宿題を終わらさないと、秋休みはない」ということで実際に3日間、朝から夕方まで、登校して勉強に励むこととなった者がいる。(ただし、30日は台風の懸念などから、8:10ではなく、9:30開始とした) それなりに、充実した時間となったようである。
 しかし、遅きに失した、という反省もある。できることならば勉強の成果が期末試験に活かせるように、早めに休日登校を指示するべきであったようにも思う。

 期限は、1週間であろう。前期のクラス内の様子を見ていたが、1週間過ぎて次の週に課題がまたがるようになると、さらに新たな課題が出されて、あっという間に悪循環に陥って苦しむことになっていたようであった。
 
 その週が提出期限の課題は、その週のうちに終わらせ、教科担当に提出する。
 場合によっては、土曜・日曜に登校をしてでも、課題を終了させる。
 
 苦労して宿題をするからには、良い成績につながるうちにやっていきたい。
 もちろん生徒だけで休日に学校にいることは認められていないので、担任も休日を返上して、事に当たるつもりである。可能な限りせきねの私用は夜に回し、どうしてもやむを得ない出張以外は、"休日登校"が必要ならば実施できるようにしたい。

 そして、この次の試験には、皆が得意満面で結果を受け取るようにしたいと思う。
平日だけどみーんなオヤスミ。
今日は文化祭のぶんの休み。
明日とあさっては秋休み。夏休みに授業をやったぶん、前期と後期の区切りとしてできたもの。
 
ですが、あんまり"使える休み"ではないわけで。
平日だから誰かといっしょに遊びに行くわけでもない。
少なくとも昼間はゴロゴロしながら洗濯機を回すぐらいしかない。
 
どうせヒマなら、なんかやってみよう。
 
というわけで決裁書を出して許可を得て、いまだに夏休みの宿題が終わっていない生徒を登校させる。
 
「夏休みの宿題やらなきゃ、秋休みなんて来ないから〜」って言ってあって、なぜかこの素朴な発言ですべてがノープロブレム。
 
8:10の出欠席からはじまって、17:00までひたすら自習。
ここまで宿題を残すだけあって、相当しぶとい。どっかに栓でもしてあるんじゃないか、というぐらいやる気が出てこない様子。
多分、勉強に対してのやる気の出し方を忘れかけてしまっているんじゃないかと思われる。
いちおう中学受験しているはずなんだけどねぇ。
 
ときどき監督して、あとはデスクワークの類を。
 
また明日も続くようだ。
 午前中のうちに文化祭の後かたづけをする。
 自分たちで普段使っている教室が割り振られた場所だっただけに、ずいぶん気楽であった。
 
 片づけの様子を見ていると、やはり品性なり躾なり性根なりが出るなあ、と思う。
 
 自分の好き勝手に、やりたいだけやった、という者はなかなか片づけができない。
 一方、そんな様子には心を動かされず、ひとつひとつの汚れにきちんと対処していく者もいる。
 
 これは、大人が片づけをしている様子も観察するとおもしろいかもしれない。
 
 
 法則めいたものを発見した。
 今まで、せきねが5回ほど同じようなことを注意した生徒は、かならず親御さんに連絡を入れざるを得ないルール違反をしたりアクシデントに遭ったりする。
 
 喫煙。
 成績不良。
 試験での不正行為。
 暴力行為。
 度を過ぎたいやがらせの発覚。
 部活中の大けが。
 登下校中の事故。
 
 注意することは、ほんの些細なことである。服装、靴の履き方、授業態度、どれもその1点はたいしたことではない。
 けれどそういうものが出てきてしまうのである。

 我ながらなんかあやしげだなあと微妙な気持ちになるが、視点を変えれば、おれの仕事上の感覚はけっこうイケてるのかもしれん。生徒の揺れがなんかアンテナにひっかかるのかも。
学級通信で45号にあたるものを書き、2日目の朝に配布。
 
 
天と自分は見ている

 文化祭、せきね組の教室にこんなにたくさんの来場者があるとは思わなかった。
 せきねがそう考えた理由はふたつ。

 3階であること。
 高等部でも"駄菓子屋"や"縁日"というタイトルで似たようなことをやっていたこと。

 けれども実際に開場してみれば、それらの不利なんかまるで感じない盛況ぶりである。
 まさしく、"うれしい悲鳴"とはこういうことなのだろう、と思った。
 あまりにも人が多く、「ヨーヨー釣り」や「スーパーボールすくい」では残りの個数を数えて"準備中"としなくてはならないくらいであった。「射的」では景品の数が不安になったので、急遽景品になりそうなものを集めるようにしたくらいであった。

 教室の外側の様子は、美術のモトムラ先生、音楽のマツイ先生が絶賛してくださった。
 芸術に関わる先生おふたりがほめてくださったのだから、これほど素晴らしいことはない。

 中の様子や雰囲気については、英会話のコリー先生やジョナサン先生、そのご友人たちがとても感心していらっしゃった。日本の祭りはあまり経験したことはないようで、それぞれのゲームにけっこう熱中して楽しんでいらっしゃったようである。

 せきねはときたま教室に顔を出す程度であった。
 それでもさまざまな様子が見えた。

 ヨーヨー釣りで、綿密に考えてプールに浮かべる数を決めていた姿。
 スーパーボールすくいで、すくうためのモナカ皮が足りなくなって、工夫を凝らして割り箸と半紙とのりとで、すくうための道具を作っていた姿。
 射的で、なかなか声を掛けられないでいる子を見つけて、エアガンを渡しながら丁寧にルールを説明していた姿。
 はがれかけた飾りに、ガムテープを貼って付け直していた姿。
 散らばるゴミを、さりげなく拾い集めていた姿。

 それらは、せきねが見ているからやっていた、というわけではない。自然とそういう振る舞いができていて、偶然にその尊い姿をせきねが見かけたのである。

 誰が見ていようが、見ていなかろうが。
 
 天と自分自身は、その行いひとつひとつを見ている。
 そして必ず本人が、その行いの結果を受け取る。
 
 文化祭のような行事で、何をしてきたか。何をしてこなかったか。
 これは必ず、人生の最も重要な時に明らかになる。
 たとえ「生活記録」にどんなに勉強したと書いても、たとえ勉強しているふりをしても、それが真実であるかは試験などの機会に証明される。これと同じである。

 最後の最後まで、来た人が喜ぶ文化祭にしていこう。
 先に言っておくと、マトモに文化祭を見て回ることができなかったのはたしかである。
 
 まあ起こった事件それぞれが微罪といえば微罪であって、大ケガしたとか外部の者と揉めたとかいうものでないだけマシではある。
けれどひとつひとつの事件には必ず対応し、学校の拠って立つルールから解決の方法を探さねばならない。

 かつての同僚が来校しても満足な話もできなかったり。
 高3生たちが「せきねセンセ〜」と駆け寄ってきて、「ウチのクラス、劇、すごいから、がんばったから、ぜっっったい見に来て!」
なんて言われても廊下側の飾りつけの前を通り過ぎるだけだったり。
 「ウチの、美味いから。来て来て〜」なんて寄ってくる高3生たちが、ことによるとタダ券をくれようとするのを止めて、「大繁盛、すごいねぇ。来てくれた人においしいモノ作ってるんだね」って言って、心づかいは丁寧に断ったり。
 
 合唱に取り組んだり。
 軽音楽演奏に取り組んだり。
 ダンスに取り組んだり。
 ありとあらゆるかたちで最後の文化祭を盛り上げている高3生たちが、かつて1年だけ、それも週に2時間授業に入っただけのおれを覚えている。
 そして、声を掛けて、誘ってきて、最高の時間を過ごして、少しでも分かち合いたいと思ってくれる。

 せきねなんぞ無視して、そのままやっていても大人気なのである。
 それでも、おれを見つけるとにこにこしながら駆け寄ってくる。
 
 自分のクラスに戻る。
 やる気のある生徒は、たくさん居る。
 本当に、頭の下がるくらい誠実に自分で仕事を見つけている者もいる。

 地道で誠実な学校生活を続ける生徒のために、おれはやるべきことをやろうと思う。
 世間のデュエリストたちは「神河〜」って喜んでいるだろうにボクと来た日には。
 
 稲刈り。……の引率。
 
 別にキライではない。むしろこういう自然とふれあう系の行事は大好きである。
 けれど気になってしまうんである。
 まず、集合・移動ののんびりさはここのところずっと感じ続けてきたこと。

 それ以上に気になったのは、刈り取った稲穂を集める際にこぼれたものを拾わず、ほとんどの生徒が特に気にしないでいたこと。
 最後に落ち穂拾いをするのかな、と思っていたのだが、時間が来たら終わってしまってそのまま。
 
 違和感を覚えた。
 食べ物について学ぶのならば、"大切なお米"をいい加減に扱わないんじゃないだろうか。
 あとで田の持ち主の方たちが集めるのか、鳥が食べてもかまわないのか、そもそもそういうロスは生じて当然なのか、わからないのだけれど。
 
 そもそも、連休の初日でバス移動に時間がかかり、最初から予定時間より30分以上遅れていた。
 それで、コンバインで多めに刈り取り、生徒たちが田に入って、少し刈り残しがあっても終わりにして、適当に集めた稲穂を脱穀して帰る。
 
 初めから終わりまで何となく釈然としない1日だった。

 けれどせきねに責任が無いというわけではない。
 生徒にきっちりとやらせるべきところはやらせるべきであったし、落ち穂拾いなら落ち穂拾いできっちりと提案すべきであった。
 きっと、つかれていて感性がすり減っているんだと思う。
 
 精神的健康度の末期状態である。
 自分で、感性の鈍いせきねは価値がないと信じているから。
 
 まあケガ人がいなかっただけでも幸いだっただろう。
 
 
 学校帰還後は文化祭準備の様子を漫然とながめて、適当な時間に帰宅。
 洗濯しながら寝たり起きたり、21時過ぎには就寝。
継続は力なり

 "毎週何かがある"我が校ならではの日々が続いている。
  2週間前は夏休みの終わり。
  先週は期末試験。
  今週は答案の返却と稲刈り。
  来週は文化祭。
  2週間後は後期の開始。
  3週間後は体育大会。希望者による英語検定。
  10月末には漢字検定。(中学生ほぼ全員)

 新たに、部活動や委員会などで中心者をつとめることとなった者もいる。
 部活の試合をしに、外部へ出かける者もいる。
 受験生を対象とした学校説明会で、役員をする者もいる。

 当然、授業も数学や英語を中心に、段々と高度な内容になっていく。
 宿題も出される。

 誰もが大変である。その中で、たくさんの課題を着実に果たしてきた者もいる。

 毎日ていねいに「生活記録」を書き続ける。
 チャイム後は着席して教員を待ち、授業にはさっと集中する。
 宿題は期限内に提出する。
 掃除で、率先して机を運ぶ。

 せきねはそのさりげない様子を見てきた。
 ひとつひとつは細かなことだ。
 たいしたことはないようにも思える。
 けれど、これらのことができていた者は期末試験で良い成績をおさめた。
 努力が形になったとも言えるし、正しさが証明されたとも言えるかもしれない。
 (もっとも、望むレベルが高いから本人は必ずしも満足してはいないようだ。これはこれで頼もしい。)

継続は力なり
 
 大リーグでシーズン最多の安打記録を期待されているイチローの、座右の銘である。
 "いそがしい"と言えばプロ野球選手ほどいそがしい仕事はないだろうし、体を酷使する仕事もないだろう。
 それでも、天候によりバットが湿り気味なら干し、試合後はグローブとスパイクを磨きあげるまでベンチを離れないという生活を続けているそうだ。
 そして、上の言葉を信条としているのである。

 いそがしくても、継続は力なり。
 どんな時も、継続は力なり。
 たとえいやな思いをしたとしても、継続は力なり。

 どこまでも、確信を持って、大切だと思うことをやろう。
保護者から
 
 
☆テストでは小さなミスが多かったようですが、普段から気をつけて、今回のミスを次回ではしないようにがんばって下さい。得意な科目が出来るといいですね。

☆わからないところがどこか、どうやってどこを勉強するか、という具体的な解決方法を本人がわからないといけないと思います。今までアドバイスはしてきましたがいつも同じ状態なので、本人に任せて「自分で勉強しよう」という態度を自覚するのを待つことにします。
 やれば結果も出てくると思うので、あきらめないでほしいです。

☆得意科目と不得意科目の差がはっきりあらわれた試験だと思います。今回のテストは得意科目を重点的に勉強していった結果があだになってしまったような気がします。今回のテストの結果をふまえて、次回のテストでは不得意科目もきちんと勉強して全体的に成績を上げてほしいと思っています。

☆まず毎日の家庭学習に時間をかけていなかったこと、集中して取り組んでいなかったことが大きな反省点になると思います。数学については苦手意識もあり、十分理解できていないようなので、類題を数多く解いて基本をしっかりと固めていってほしいと思います。
 期末に向けてどの時間を学習時間にあてるかを計画し、自分の満足のいく結果を出してくれることを期待しています。私自身も子供が入学してから、何を勉強しているかなどを見たこともなかったので、もう少し学習の様子に関心を持たなくてはと反省しております。

☆地道にやる ←本人の言葉を信じて次は期待したい。

☆見たり、読んだりするだけでは覚えることはできないと思いますので、覚え方をもっと工夫してください。まず書いて覚えること。
 この反省を、次回まで忘れないように!

☆家庭学習の時間は1年の時より少ないです。テレビとパソコンの方に関心が行ってしまっているようです。勉強する気がなかったので、数量と図形は今まで見たこともない点数を取ってきました。
 これから親子の戦争が始まるぞ、いつ自覚してくるかしら。

☆友達との競争意識が出てきました。
 全体のレベルアップも大事ですが、得意科目の数学・英語でナンバーワンを目指してがんばってほしい。
 
  以上は言うまでもなく、中間試験の成績表に書いてくださった保護者としてのコメントである。
 なんというすばらしい親御さんたちだろう、としみじみ思った。
 きみたちひとりひとりが、いかに期待されているか。

 中学生活がうまくいっているかどうか。
 期末試験の結果はそのひとつの指標でもある。
 いい成績を取ろう。
 
 
 =============================
 
 まさか自分のコメントが学級通信に出てしまうなんて、などと思う親御さんもいるだろうなあ、と思う。
 
 そういう意味では、とうとう親御さんまで"炎の階段"を登らせてしまった記念すべき日です。
 
 そもそもせきねの考える教育には、傍観者はナシです。
 教員は、血を吐くように仕事をします。今の御時世に教員をやろうって言うんだからやっぱりそれぐらいの覚悟は要るんじゃないかと。
 生徒は全力で学校生活を送ります。「全力で遅刻をしない」から「全力で勉強する」まで、自分の生きる舞台が転覆しないための力をつけてもらいましょう。(いつ転覆してもおかしくないのです、この世界は) 人類誕生以来行われてきた、自分の家を造る、という作業をしなくてはいけないわけです。
 そして保護者も。学校に対して無関心で良いワケがない。
 「子どもを通わせる」というのと「全委任で放置」とは断じて違うのです。
 
 だから積極的に入って来てもらわねばならぬ。
 その第一歩。
 
 
 ひょっとしたら以降は壮絶になるやもしれません。
 ……我ながら困った性分です。
 もうすぐに定期試験が始まる。
 そこで前回の試験で各生徒たちが書いた反省をコピーし、切り張りして学級通信にした。
 
 ==============================
 
次の期末考査に向けての取り組み
 
 反省がおざなりな会社は、その態勢を問われる。
 反省自体が嘘にまみれている政治家は、誰も信頼しない。
 言っていることとやっていることが違う人には、ついていきたくない。

 すべて、みずみずしい感性を持つ中学生がきらっている人物像だ。
 もちろん、嫌悪してかまわない。
 それが気高く誇り高い精神のありようだと思う。
 今、こういったイヤな人物像に近づいていないか、自身を振り返っていただきたい。

 中間試験後に自分で書いたことを、今、思い出していただきたい。
 
 期末試験前、今この時期にどうすればいいか判らない生徒は、そもそも本校の入学許可を得ていない。全員が入学試験を受け、「本校でやっていけるだろう」という判断のもとに合格になったメンバーである。

 みんなは判っているのだ。
 だから判らないふりをしている者に対しては、なんとも言えない憤りを感じる。
 
 敢えて言う。
 
 勉強しなさい。
 自分の力で、自分自身の中学生活を輝かせなさい。
 
 
 =============================
 
 
 今回でおそらく、最低限の関わりで済ませる方が互いに幸せである者と、もっと関わりを深めるべき者とが明らかになるだろう。
 
 そういう考えをしてみることにした。
 
 これこそ"個性に応じた教育"というヤツだろうから。
人、それぞれの在りよう

 とある女子バレー部の生徒がいる。
 この夏に、高校3年の最後の試合を終えて引退した。

 高校に入ったすぐの頃から、ものすごくアグレッシブなプレイをする生徒だった。
 身長もそう高い方ではない。ベストのタイミングでジャンプしてスパイクを打ち込むことができるくらいだった。
 試合になれば選手の誰もが必死だから、連携の充分でない時なんかいくらでもある。けれど彼女はいつだって守りに回ることなんかなかった。
 それで相手方有利だった試合の流れを曲げて、大逆転した時もある。
 最後の最後でスパイクが決まらずネットにかかり、負けてしまった時もある。
 勝った試合の後、熱心にスパイク練習をしていた。
 負けて悔しくて涙を流した後も、熱心にスパイク練習をしていた。

 そんな生徒だった。
 一方、普段の学校生活は、というとこんな感じだった。

 必ず、課題は出した。
 文句の付けようのない最低限で。
 
 時々行った小テストも、必ず合格した。
 ぎりぎりのラインで。
 
 授業は必ず聞いていた。
 とってもつまらなそうに。
 
 「なんでかなぁ」とか「こまったものだ」とか思ったこともあった。
 しかしある日、唐突に気が付いた。

 すべては、自分のやりたいバレーボールのためだった。
 言われたことは必ずやる。
 やらないと、バレーボールをやるかけがえのない時間が減るのである。
 1分、1秒たりとも居残りややり直しで練習の時間を減らしたくもないし、注意されるようなことをして大切なバレーボールをおとしめたくはない。

 なるほどなぁ、と思った。おもしろいなぁ、と思った。
 "自分の大事なもの"に対する、こういう態度もあるのだ、と教えられた気がした。
 教員に対して良い顔をするばかりが、必ずしも"良い生徒"では無いだろう。
 自分のすべてを賭けるものがあるという日々、これってものすごく尊いことだ。

 まあ、その後も何が変わるでもなかった。
 誇り高い生徒だから、何を言ったって迷惑がるだけだ、と思っていたから。
 せきねは授業をし、課題を出す。
 彼女はつまらなそうにし、けれど最低限はやる。

 せきねはその後に中学担当になってしまったけれど、その生徒についてだけは「バレーボールを続けている」と聞くだけでずっと安心だった。
 きっと、どんなにつらいことがあっても果敢に立ち向かい続けたことだろう。

 多分こうやって学級通信に書いたことを知っても、そっけなく最低限の礼儀で「そうですか」って彼女は言うだろうな、と思う。それもまたおもしろい。

 放課後、君たちが元気よく部活動に出ていくのを見て、こんなことを思い出した。
 夏休みは8月終わりまで続く、という法は無いのです。
 
 こんな発言を聞くとみんな
 
 * お お っ と *
 
 とも思ってしまいますが。(汗)
 
 ナイス校長! っていうわけで授業開始。
 
 
 当然ですが、「マヂですか」から「マジかよ〜」まで、濃淡さまざまな声は聞こえてくる。
 ただ、物事にはメリットデメリットの両面があるわけで、今回のこの件に関しては、個人的に「アリかな」と思う。

  
そのいち。
 
 9月からの「いきなり通常授業」よりは、8月から午前中授業を行うことによって学校へ通う習慣を取り戻し易くなる。
 
 遅寝遅起き、遠い距離の通学、長い授業時間、中学生が体調を崩しやすそうな要素はかなりある。ウォーミングアップの期間を設定するのは大事なことだ。
 (ちなみに9月にその期間を、ということは無い。二期制なので9月は学期の最後の月という位置づけでしかない。)
 
 
そのに。
 
 前期期末の試験前、その準備期間はもともと必要であった。
 
 カンチガイしてはいけないが、試験って、生徒が勉強する機会のために設定されている。
 別に、試験をすることによって教員側で生徒をランク分けしたいわけではない。偽悪的に言い換えれば、"教員にはそんなヒマはないし、そんなシュミもない"のである。(少なくともせきねにとっては)
 
 普段の授業でインプットしたものを、試験によってアウトプットする。この繰り返しで、たしかな学力を身につけることを意図している(はずだ)。
 
 ならば、試験のための勉強を充分にやる、というのはとても意味のあることだろう。
 逆に言えば、事前(もしくは)事後に勉強をしない試験の意義というのは非常に少ない。
 ここらへんが心底わかってないといけないなあ、と思う。教員も、生徒も。
 
 
そのさん。
 しっかりと学力を付けて、大学全入時代を超えないといけない。
 
 日本の大学全体の募集定員と受験者数が等しくなる、逆転する、その境目が2007年だと予測されている。あと3年後くらい。
 
 壮絶な時代だと思う。
 
 母校の大学が経営難で無くなってしまう、もしくは通っている大学がつぶれてしまう、そういう可能性があるということだ。
 
 ただ"大学"と名の付くところを出ただけでは、自分の望む仕事に就けない、という傾向がますます強くなってくる。
 経営が苦しくなれば、醜聞につながる動きを見せる大学もきっと多くなるだろう。
 「生きるために自分の足を食うタコ」という表現があるが、その日を生きるため、どうにもならずに、なにかをしでかす可能性はある。
 
 もちろんそれらは学生たちの直接的な責任ではない。
 でも波の飛沫をかぶるのは、その学校に縁する者たち全員である。
 「"負のブランド"をかぶって進路を探す」なんて、就職活動をした者にとってぞっとする構図だと思う。
 そんなことなんでもない、と心の底から言い切れればいい。
 けれど、少しでも苦労した人は「かんべんしてほしい」「どんなに少しでもいいから自分には追い風がほしい」って思うんじゃないだろうか。
 
 壮絶な時代である。
 まだ、みんなでモーレツに勉強、勉強と言っていた頃のほうが心を決めやすい時代だったんじゃないだろうか。
 
 無責任な風潮の日々を漂っていると、何もしなくてもいいような気がしてくる。
 「勉強しろ、なんてうるせーや」と思う。
 「アルバイトで生きていけるじゃないか」と思う。
 
 でも、ホントにそうなのかな?
 
 
 と、いろいろ考えてみると、こうやって8月から授業が始まってもしょうがないかな、と思うのである。

顔写真。

2004年8月14日 学校・勉強
 高校生たちに残暑見舞いを書いたのはいいが、はて住所はホントに大丈夫かな、と思った。もう2年ほど離れているから、もし引っ越しているとせっかく書いたハガキが返ってきてしまう。
 
 というわけで高校職員室へ確認に出かける。
 
 ウチのガッコは「生徒カード」というモノがあって、住所やら家族構成やら通学の略地図やらを書いてある個票がある。もちろん部外秘で、たとえば教員が生徒に連絡をする時や家庭訪問をする際に活用されるわけだ。 それで住所を確認すればいいわけだ。
 
 この「生徒カード」、入学後すぐに出される書類なので、変更は後から書き加えられていたりする。写真も、身分証明書用に撮られたものが追加で並べて貼れるようになっている。
 
 つまり、入学前の顔(=1年の初め)、1年終わりのころの顔(=2年の初め)、2年終わりのころの顔(=3年の初め)、と並べてあるわけ。
 思わず、「うっわー、こんなかわいかったっけか?」「オトナになったよなあ」なんてしみじみと思ってしまう。
 こういうノって、本人からすれば実感がないものなのだけれどね。
 
 ちょっと本来の目的から外れながらも、ふと気付いた。
 
 「この表情の変化は、どこから来るのだろう」
 
 
 1年、2年、3年、と並べてみると、当然顔のつくりは大人になっているはずだ。15歳から17歳に(そして18歳へ)なっていっているのだから。
 けれど、それだけでは済まないものもある。
 髪型、髪の毛の色、コンナモノはまだ良い。
 (↑茶髪になっているやんちゃっ子とか、まだ良い。イヤだけど)
 学年が上がるにしたがって、表情が良くなっている生徒と、表情が悪くなっている生徒と、その差がものすごいのだ。
 
 普通、写真うつりが悪いとイヤな気分になるんじゃないだろうか。まして高校生。スタイルなどをけっこう気にする年頃だと思うのだけれども。
 
 仏教で、"如是相(にょぜそう)"っていう言葉がある。
 苦しんだり楽しかったりしている、それぞれの命の状態は「おもてに出る」ってことだ。
 (っていっても残念ながら仏教にものすごく詳しいわけでは、ない。古典を読む背景程度しか知らない。)
 
 なんでこんなにいやな表情なんだろう、と可能性を考える。
 1)この写真を撮った業者がヘタクソ。
 2)写真撮影の直前にいやなことがあった。
 3)まわりでちょっかいを出していて、撮影に集中できなかった。
 4)プリクラは良いけど身分証明写真なんかまともにやれない。
 5)本人はそれなりにまともなつもり。
 
 まあ大雑把に言って、「学校が楽しくない日々」を続けてきて、それが"如是相"にあらわれたんだろうな、と思うわけだ。
 本当に、顔写真で毎年毎年の経過が並んでいるとすごい。
 びっくりする。
 「あー、充実してるんだねー」って、写真を見ると元気を分けてもらっているような感覚になる生徒もいれば、「コイツ何か大きな病気なの?!」って、ものすごく不安になる生徒もいる。
 
 どうして「学校がつまらない」か、それは生徒個人の問題である(どうにかしようと思ったって、教員がどうにかできるものではない。高校生はそもそも教員が何を言おうと聞かないものは聞かない。)……のだが、生徒の表情にはどんな傾向があるのか、何が条件になっていそうか、は考えておくべきことだと思った。
 
 かつて居た学年、700人弱。
 生徒の表情のうつりかわりに注目して「生徒カード」を見直した。

 ひょっとして、と思うことはあった。
 ……が、その"ひょっとして"は想像の範囲だし、どこかにこういった研究結果が明らかにされているかどうかも判らないので、非公開。
 
 
 かつて担任した生徒、43名。
 みんな、良い表情をしていた。
 安心し、嬉しくなった。
○×について熱く語ってください

「つまらない文」は、読んでいて苦痛だ。
 ではどんなものが「つまらない文」なのか、これは考えると難しい。しかし、ひとつ言えるのは、書き手の熱意のない文はやはり「つまらない文」であろう。
 熱意があっても文が下手だとつまらないということもあるかもしれないが、とにかく、いいかげんにだらだら書いた文がおもしろいはずがない。
 夏休み前に、「生活記録」を1週間で規定以上出せなかった人がいた。
「文を書く」という大事な勉強が足りていないのである。そこで、「熱く語ってください」と原稿用紙を渡した時があった。
 これはけっこうおもしろかった。ご紹介したい。(誤字・表現など、若干変更してある)
 
 =============================
 
 ☆サメについての論文

 サメとは魚です。なかには「サメはイルカの仲間だ」「サメはホ乳類だ」など変な事を言っている人もいるが、サメは魚です。
 その魚の中で、サメは他の魚と違う点があります。簡単なつくりのエラ、うろこはエナメル質の突起、浮き袋を持っていない、という点です。
 サメにもいろいろな種類がいて、尻ビレのないカスザメ・ツノザメ・ノコギリザメ科や、背ビレが一基しかないカグラザメ科、ホオジロザメなどの凶暴な種類が含まれているネズミザメ科、瞬膜がつき、全体的にスマートな体形のメジロザメ科、ジンベイザメ他のおとなしいサメの仲間がいるテンジクザメ科などがいます。
 ネズミザメ科には凶暴な種類がいるといいましたが、ウバザメという2番目に大きいサメがいます。そのサメはかなりおとなしく、まるで日なたぼっこをしているかのように海面を漂っています。以前日本近海で「謎の首長竜か?」と騒がれた腐食死体が発見されましたが、あれはウバザメの死体という説があります。サメは軟骨魚類なので死ぬと体が崩れ、原形をとどめなくなります。
 世界一大きいサメはジンベイザメです。このサメは鰓濾という濾過器でプランクトンを濾しとります。この機能は肉食のヨシキリザメにも見られます。この原始的なサメは、あらゆる環境に対応できるように特別に進化したサメで、プランクトンも食べます。
 ホオジロザメといえば「人食いザメ」として恐れられ有名なサメです。このサメはサメの中で唯一水面から顔を上げられる特別なサメです。それが何に役立つのかというと、周囲の様子を確認したり、海面にいる動物を襲うためです。時速55kmで泳ぎ、イルカをも補食します。
 かといって、サメ全部が恐ろしいものではありません。危険なサメもいますが、好んで人を襲ってくるサメはいません。襲ってくるとしても代表的なのは、ホオジロザ メ、イタチザメ、オオメジロザメ、アカシュモクザメ、クロトガリザメ、メジロザメで、これらは危険な種と言われています。メジロザメの仲間では、よく川に上ってきて湖などで暮らす種もいます。
 一方、小さいサメもいます。世界一小さいサメはツラナガコビトザメというサメで、15cm(Dr.グリップくらいの大きさ)しかありません。このサメはツノザメの仲間で、主に小魚や小エビなどを食べています。一回見てみたいサメです。
 ダイビングをしてその時見たいサメ候補ナンバー1はジンベイザメ、2番目はネムリブカというサメです。普通、サメは泳いでいないと死んでしまいますが、このサメは目の後ろにある排出口から水を出して海底にとどまっていることができます。
 エイも目の後ろに排出口があり海底にとどまることができます。エイはサメから進化した魚なのです。
 
 =============================
 
 ☆ポケットモンスターの極意
 
 みんながこの作文を読んで、早くその魅力に気づいてくれることを願う。
 単刀直入に言うと、ポケモン最高。ポケモンに勝るものはない。いやむしろ勝とうとがんばる方がおかしい。
 ポケットモンスターと聞いて、知らない者はいないだろう。私が小学校1年のころ、つまり7年くらい前に大ヒットし、今でもゲームは根強い人気がある。あの愛くるしい姿のピカチュウから、全身強さのにじみ出るリザードンまで種類は様々。もう誰にも止められない!!
 しかし、アニメの方は最近危なくなってきている。純アニポケ視聴者の私としては、とても悲しい状況だ。友達からしてみると、
 「だって、あれオチがいつもベタじゃん」
 「ピカチュウが10万ボルト出して終わりじゃん……毎回毎回、そろそろあきるよ」
 反論するにも言葉が返せない。
 確かに話はベタだが、そこまでのストーリー展開が最高。あくまで子供の観るTVなので、13歳という中学生には少々痛手だが、また違う視点から考えることができておもしろいのだ。友情の葛藤、正義という相反するもの(ロケット団vsサトシ達)、ほんの少しの恋愛関係(タケシの片思い)。すべてが最高。
 ……さて、ここまで熱弁したのだが、ポケモンの魅力に気づいてくれただろうか? これ以上話し出すといくら話しても足らないのでここまでにしておこう。ポケモンの話をしてくれる人、随時募集中……。
 
 =============================
 
 ☆鋼錬(ハガレン)

 最近はアニメやらは全くといっていいほど見ていない。(意に反して日曜討論とかTVタックルとかを見て「だから!天下り野郎の給料減らせよ!」とか「ハマコーまたぶち壊しやがったなあ…」とか激しく意見を言いまくっていたりもする。)
 だが、「鋼の錬金術師」だけは毎回毎回見ている! (その時は誰も家に居りゃせんのでビデオに撮って後で見る) なんだか妹に始まり、母親が強烈な衝撃を受け、「上海妖魔鬼怪が見たい」などと言い、それがしも「絵うま・展開うま・笑い所うま」の三連でどっぷり溺れてます。 (母もかなり昔からマンガを読みふけり本を読みふけってきた古強者。子供のマンガをパクり「ドラクエ新刊ないの?」とか「ハガレンはまる」とか言っている。現時点でハガレンにはしりまくり、子供が増刊買わないからって文句を言う始末!世も末、地も裂け天はおちる本当に恐ろしい人…です。)
 やばい、バカに面白いと思うハガレン。そのシンズイを語らせてもらいましょうか。
 まず絵がうまい。今までにないような表情やら陰の使い方がとても善い!
 あと展開がまさに予想だにしないもの。確かに何度読みかえしても飽きないとはこのこと! いやー面白いねぇハガレン。
 あとはキャラ配置に特色がみられる。大笑いのキャラが多くてかなり面白い。戦闘中にもボケるが真面目なところは真面目なんだなあ、これが。
 ではこのくらいで失礼。
 
 
 =============================
 
 
 ポイントは、全部ウチのクラスの子が書いた作文だってコト。
 それも、「生活記録」が出なかった日の放課後に。
 
 これはイイカンジだと思っている。
 伸ばしていきたいなあ。
春から夏へと

「まだ、"いわゆる1学期"が終わっただけ?」
 ホントにこう思う。
 クラス替えの発表を見てわいわい騒いでいたみんなを見たのは、何年も前だったような気さえする。中学2年生の若いパワーについていくのが、しんどい日々でもあった。

 良きにつけ悪しきにつけ、びっくりすることも多かった。
 
まず、「宿題が期限内に絶対に揃わない」ということ。
(絶対に直します。直させます。それなりの覚悟をしてください。)

「"友達"をとても大事にする人がたくさんいる」こと。
(一方、友達以外には非常に冷たい人もいるかもしれません。「ふつう」にしましょう。)

また、「黒板の日付と日直の氏名を、必ずかえてくれる人がいる」こと。
(ダメなクラスは誰も気付かずに日付がかわりません。また、いつも黒板の端々に細かな落書きが残っています。教員の手によらず自主的に整えられているということは、ものすごいことなのです。)

「掃除をきちんとやる人がけっこういる」ということ。
(自ら気付いて行動を起こすことができる人、何かを言われるまで動かない人、どちらが将来すごいことをできる人になるか、言うまでもありません。)
 
 人間に、「悪いところだけしかない」人間なんかいない。そんなのは、コミックの中だけの話だ。(それも、最近では「リアリティがない」ということで減ってきているようである。)

 大事なのは、「これからより良くなっていこう」ということ。
 長所を伸ばし、短所を克服していく。短所が長所になるように変えていく。
 ひとりひとりも同じだし、その集まりであるクラスもまた同じ。
 向上していこう。

 
 夏休み、誰が見ているわけでもないかもしれない。
 けれど、誰が見ていなくても自分自身はすべてを見ている。
 良い行いをしても、悪い行いをしても、すべて自分自身が知っている。

 脳内物質と言われるものがある。
 (アドレナリン、エンドルフィン、ドーパミンなどさまざまあり、さかんに研究されている)
 その人の行動によって脳内物質は作られ、爽快になったり、逆に気分が悪くなったりする。

 良いこと、充実できることをすると、気分が晴れやかになる。
 悪いことをすると、ストレスやイライラした気持ち、つかれなどの症状が出る。
 簡単に言うと、どんなことも、すべて自分の行いは自分へ返ってくるのである。

 長い夏、充実し、気分良く過ごす日々をともどもに送っていこう。
 
 =============================
 
 ようやく終わった。
 と言いたいところだが、夏期講座や特別編成授業というものがあって、実質2週間ほど、夏休みのかわりに午前中授業がある。
 「夏休みが8月31日までだ、という法律はない」というのが"上の方"の弁。
 やれやれ。
学習合宿(4日め)

☆今日は学習合宿最終日でした。ほとんど勉強もなく、テストだけしかなかったので「やった〜!」と思ったけれども、「これで終わってしまうんだ」とも感じました。悲しいようにも思うし、うれしくも思うから複雑な気持ちだけれども、今日は早く帰って寝たいと思いました。
 帰りのバスの中ではけっこう眠くて起きているのがたいへんだったけれども、バスの中で見たビデオと家で見たビデオで同じものなのに、友達と見ると長く感じなかったし、とっても楽しく見ることができました。
 1年生の時よりもたのしい合宿になったので来年の修学旅行はもっとたのしくなるようにしたいです。

☆今日で学習合宿は終わりだ!!! うれしいような悲しいような…。
 今回のテストはあまりできなかった。
 いろいろおもしろい合宿だった。昨年よりは楽しい、そしてらくな合宿だったと思う。
 食事もなかなかおいしかった。
 今回ぼくは怒られることがなかった。怒られた人は筋トレをしていた。怒られなくてよかったなあ…。
 本当に楽しい4日間だった。

☆今日は部屋とお別れの日だ。気持ちよかったクーラーともお別れだ。早朝活動はあまり気が入らずぼーっとしてしまった。朝食はなんとか完食した。
 テストをやっている最中は大丈夫だったが、終わった瞬間たまっていた疲れがどっと押し寄せてきた。
 閉校式が終わり、バスに乗り約3時間の旅に出た。ハリーポッターの映画を鑑賞することになったが僕はほぼ寝ていた。夢は見なかった。バスが到着してから重い重い荷物を背負って足取り重く帰った。電車では、バスの中で充分ねたので友達と元気にしゃべりながら帰った。
 おみやげの信玄もちがたのしみだ。

☆今日はついにテストの日だッ!!!
 ホントにヤバかった(汗)。自分でもびっくりするほど…。
 やっと帰れるぞぉ〜。早く家に帰ってゆっくりしたい!! テレビもみれて、気持ちよくねれて、もう最高デス!!!! やっぱり家が一番落ち着くような気がする。
 今日は七夕だぁ! あんまり七夕ってカンジがしない…。
 合宿していると、今日が何曜日か何日かもわからなくなってくる。ちょっとこまるナァー。バスの中では爆睡しそうだ! ってか爆睡します!!
 家に帰れて超うれしいデスッ!!!

☆今日すべてが終わった…。はやかったー。まるで時間をはやおくりしたようだ。
 最初は4日もあるなんていやだー、と思っていたけれども、あっという間の4日間だった。時間を忘れたかのようにこの4日間で21時間ちょっと勉強した。さすがにきつい。自分でもよくやったなー、と思う。
 自分をほめたいと思う。よくがんばった、オレ。
 今日のテスト、できなかった。けっこー難しかった。はあー。
 赤点かもしれない。てゆうか赤点あるの?
 数量のテスト、最初にやったときは20分で40問くらいだった。
 ところが今は12分で80問。すごく速くなった。
 
 =============================
 
 来年はアメリカへ2週間の修学旅行。
 そのステップになっているといいのだけれど。

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