合唱祭を終えて
 
 どのクラスもひたむきであった。それぞれに良さがあった。
 
 わがクラスの合唱も、とても良かった。
 金曜の音楽の時間で急遽大幅なアレンジを加えたとは思えないくらい立派であった。
 聞いていて、今までで一番良かったのではないかとも思った。
 
 伴奏、指揮ともに、それぞれ非常によくがんばったと思う。
 合唱で舞台に立つのも緊張する。
 しかしそれに増して、伴奏を一人で受け持つこと、皆と離れたところで指揮を執ることの重圧や緊張は表現することが難しい。
 
 先週、38人ぶん全員の意見をすべて紙面に載せた。
 そのほとんどは、単純に賞を獲得することではなく、「良い合唱の向こうにある何か」を求めようという意見だった。
 
 それを求め、そして得られたかは、舞台に立った各個人がそれぞれ知っている。
 
 せきねは、38人全員が舞台に立ち、心を込めて合唱をしている姿を見守って、極上の時間を過ごした。充分すぎるほど満足だった。

 合唱祭に向けて行ってきたことは、持っている能力を総動員する勉強であった。
 発声や音程などの音楽的内容は当然重要となる。
 そしてさらに、朝きちんと起きる力。
 時間に集合する力。
 辛抱強く訓練を重ねる力。
 状況を判断する力。
 周りへ気配りをする力。
 ひとつの姿勢を保持する力。
 緊張に耐える力。
 歌詞の意味を読みとる力。
 合唱に必要とされる力を考えると、それはいずれも社会的な人間としても必要とされる力に通じる。
 誠実に、熱心に取り組んできたぶんだけ、確実に成長している。
 運命を力強く切り開いてゆく、"スゴイ自分"になっていくことができる。
 苦労したぶん、ただの石が削られ磨かれて宝石となるように、立派になっていく。
 
 中学3年では音楽の授業は無い。
 練習も、曲の表現も、ほとんどすべてを生徒の中から生み出すこととなる。
 その中で、来年度の君たちがどれだけすごい合唱を持ち寄ってくるか、楽しみである。
 幸運なことに、ウチのクラスは3限に音楽の授業があった。
 週に一度の授業が合唱祭本番の前日にあり、きちんとした練習ができるのだから有り難いことである。
 
 今年度のせきねは、金曜午前中は研修となっていて学校に出なくても良いのだが、自宅にいてもものが手につかず、普段と変わらない勢いで勤務を始める。
 
 音楽のマツイ先生には、ビデオ撮影をお願いしていた。指導をしながらビデオを撮るという、相当な無理を言っているのだが、快く了承してくださった。
 保護者会のネタとして、授業ビデオはとても良いのである。短めで、生徒みんなが活動をしている場面というと、音楽が一番になってしまうと思う。(体育は男女別。美術は動きが少ない。……国語の暗唱や五色百人一首あたりは好適なのか?)
 
 学校に早めに来れば来たで、あとはぼんやりと茶を飲むなり教材を眺めていればいいのだが、階上の音楽室から微かなピアノの音が聞こえてくるだけでもうダメであった。
 
 音楽室の扉の外にいて、生徒たちの声をじっと聞いていた。
 
 寒々とした廊下に、ほんのかすかに聞こえる合唱は。
 あたたかく、あたたかく聞こえた。
 
 
 4限になって、音楽準備室のマツイ先生にお礼を言いに行った。
 すると、不思議に言葉少なく、先の時間に撮ったビデオを今見るように言うのである。イイから見ろ、というような雰囲気であった。
 
 
 何度も何度も、合唱の練習の中で苦労をし続けた指揮者の子が、少し恥ずかしそうに話をしていた。
 「本番では、今以上に良い合唱にしよう」
 女子たちが、「おー!」と明るい返事。
 とたんに広がる笑い。
 
 静かに、しっとりと前奏が始まる。伴奏の子は去年からさらに上達し、慣れた様子で音を紡いでいく。
 
 合唱曲は、TSUNAMI。
 淡々とした調子から始まり、だんだんと混声3部合唱の和音が広がっていく。
 ソプラノも、アルトも、テノールも、みんなそれぞれに、自分の出せる限りの声で歌っていた。
 
 なんだ、じょうずにできるじゃないか。
 そう思ったら、もう涙が出てきて仕方がなかった。
 
 宿題しない。
 掃除は手を抜く。
 仲良くならない。
 表裏ばかり。
 年度初めから延々と続く身勝手さと怠慢さに絶望し、突発的に退職するか計画的に退職するかをひたすら考えていた気持ちに、ビデオの中の声はまっすぐに突き刺さった。
 
 5分。
 泣き続けた。
 ひたすら。
 
 今年度に感じた時の無い気持ちで。
 
 TSUNAMIという曲を、一生忘れることができない。
 そういう歌にさせられてしまった。
 所詮。
 言葉で何を言おうとも。
 いかに行動したかで自身の正しさは明らかになる。
 
 これは、大人だろうが子供だろうが変わりはない。
 若いから純粋で、という考え方は、少なくとも美化に過ぎる。
 小学生だろうが中学生だろうが高校生だろうが、下劣なやつは下劣だ。
 
 もちろん、年若ければ目算の誤りは多くなる。
 だから生徒に対しては、「言っただけのことをどれだけやれるか」ではなく、「言っただけのことをどれだけやろうとしているか」を見るようにしている。
 
 ポイントは簡単である。
 たとえば今回のクラス合唱の場合ならば。
 練習の時間に何人集まっているか、である。
 「歌おう」と声をかけられたとき、その指示をすばやく聞き入れることができるか、である。
 苦労を避け、小狡く立ち回る集団の曲には、感動がない。
 
 
 放課後・職員会議。
 あちこちから合唱の練習が聞こえてくる。
 その中で、耳が無視できないメロディーがあった。会議で発言する教員の声よりも、歌声が耳に入って来るのである。
 
 会議が一時休憩になって、窓から見ればタカハシ組の子たちであった。
 他の先生たちも同じ思いを抱いたのかもしれない。次々と窓の外にいる子たちの姿を眺めていた。
 
 タカハシ組の全員が居たわけではなかった。3分の2、ひょっとしたら半分程度かもしれない。
 けれど自分たちで考え、集まって歌っているその合唱は、他の練習よりも教員集団の心を動かした。
 
 物理的な(?)声量の差はあるだろう。20人より30人、40人と数が多ければ多いほど、測定したり録音したりした時の声量は多いに違いない。
 けれど感動し、「いいなぁ」と思うかどうかは別だ。
 人の耳は、音を選別するのである。
 
 カラスが集まれば、烏合の衆と呼ぶ。鳴き声はただの騒音である。
 きっと、どんなにたくさん集まっても、気持ちのこもらない合唱は濁るのだろう。
 
 生徒集団の質を見たい時は、合唱を聞けばいいのかもしれない。
学校に於ける法の適用
 
 合唱祭を大きな山として学年末の「有終の美」を目指すと同時に、新年度がそろそろ見えてくる、そんな時期になった。何人がきちんと進級できるか、クラス替えがどうなるか、担任が誰になるか、それがはっきりするのはまだ先ではある。
 しかし、明らかになる日はいずれやって来る。
 最近のせきねは、昼に授業をしクラスのことを考え、宵に歌人とその成せる短歌を調査し、深更に学校関連の事件や他の教員の仕事を学んでいる。
 今は、学校に関わる法律について。
  ( http://www.fuji-law.ne.jp/qanda/qanda10.html )
 
(Q) 私の中学1年になる子どもが、同級生Aから階段から突き落とされ重傷を負いました。いわゆる「いじめ」で、学校の調査によれば、Aから日常的に被害を受けていたことが判明しました。学校の対応は良心的で不満はないのですがAを許せません。何か法的措置を取ることはできませんか。
 
(A) ご相談にある「いじめ」は、対加害者との関係では通常の傷害事件として考えることができます。従って、刑事・民事両責任の追及が考えられます。
 まず刑事責任ですが、本来刑事告訴すれば、加害者は傷害罪として一定の刑事責任を負うのですが、本件ではAは14歳未満ですから刑事責任能力がありません。刑事責任能力とは行為の是非を弁別しこれに従って行動する能力のことをいい、重度の精神障害者などのようにこれが欠ける場合、刑事責任を負うことはないのです。13歳の子であれば通常この能力に欠けることはないのですが、刑法は刑事政策的立場から画一的に14歳未満の者は絶対的に刑罰を科されることがないとしたのです。従ってAに刑罰が科されることはありませんが、少年法により、教育的見地からなされる保護処分(児童相談所送致など)が付されることがあります。
 次に民事責任ですが、「いじめ」を不法行為として損害賠償請求をすることが可能です。この損害には、治療費等の他に「いじめ」によりお子さんが蒙った精神的苦痛に対する慰謝料も当然含まれます。ただ、民事上も責任能力が問題となります。この場合、損害賠償など多少とも法律的責任を弁識しうる能力をいい、民法上は個別に判断されることとなります(通常は11〜12歳が肯定される目安です)。この加害責任能力が認められる場合にはA自身が損害賠償義務を負うことになり、その親は原則として責任を負いません。一方、加害責任能力が否定されると、Aは損害賠償義務を負わない代わりに、Aの親がAに対する監督義務違反として賠償責任を負うことになります。
 
 簡単にまとめると。
 たとえ学校であっても、事件が起きた時にケガを負わせた者は、刑事責任の上で傷害罪に問われる。14歳になっていない者は少年法によって例外となるが、その場合でもしかるべき施設に送られることがある。
 また民事責任の面から考えると、ケガをした損害、精神的苦痛を受けた損害、両方の責任が追及されることとなる。民法では個別のケースによって責任能力が判断され、だいたい11歳から12歳あたりで正常な判断力があると見なされる。責任を果たすことができないと判断された場合、相手を傷つけた本人に代わって、親がその責任を負う。
 
 ケガをさせられたり嫌がらせをされたりした場合、学校の対応とはまったく別に、法廷で決着をつけることができ、為されてきたことに対する結末が用意されるのである。
 歌というものは無形であり、放たれた声は虚空に消える。
 
 たとえどれだけの練習しようとも。
 何分か何秒かの瞬間を過ぎれば、それははかなく消え去ってしまう。
 
 今回の合唱祭にはご家族にぜひご来場いただきたいと、強くせきねは願う。
 
 たとえ子どもの成績が赤点でも、ご来校しなくてもいい。
 たとえ子どもが学校で問題を起こしても、ご来校しなくてもいい。
 
 けれど。
 子どもの檜舞台だけは、是非とも目に焼き付けていただきたい。
 
 一生懸命になるものが見つかり。
 あるいは見つからずに。
 楽しかったり。
 苦しかったり。
 失敗したり。
 喜んだり。
 ともかくも皆、中学2年生を全力で生き続けてきた。
 その我が子の姿を、同じ空間で見守っていただきたい。
 
 
 非礼を承知で、敢えて各ご家庭に申し上げる。
みんなで楽しくできたらいい。
ケンカなんかしないで仲良くやりたい。
賞もとりたいけど仲良くやるのが一番だと思う。
 
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 全体としては、男子全員がちゃんと歌うようになって、女子などの指示を聞いて、もっとやる気を出して、団結してやれば良いと思う。
 個人としては、もっと歌に集中して、余計な話をしないで、周りの指示に反応して、自分(個人個人が)全部をしっかり歌えるようになれば良いと思います。それが、全体のことにつながってくると思います。
 
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・仲良くみんなでたのしくやりたい。
・一応しょうは取りたい。(記念になるから)
 
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・合唱について
 自分は、クラスが一体となって歌うことで初めて成功すると思います。
 しかし、自分が見た限りでは、ほとんどの人が友達と話をしていたりして、なかなか纏まることができていなかったと思います。
 先生がこの時間にある人の生活記録ノートのことを言っていましたが、その人の意見によると「先生は賞のことしか考えていない、男女が一緒にやることで初めて賞が取れる。」と言っていましたが、女子は一所懸命がんばっているが男子はほとんど声が出ていなかったりしゃべったりしていて、練習の時でも女子の方が圧倒的に声が出ていました。もし、男子のせいでちゃんとやっている女子までも残るというのだったら、ひどいと思います。
 また、先生が賞の事しか考えていないと言うのは、合唱の練習をしていた時の先生の言葉をちゃんと聞いていればそんなことは言わないと思いました。
 
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○合唱で金賞とかを目指してもいいとは思うけど、まずはクラスがまとまることが先だと思う。まとまっていないとうまくうたえることもないと思う。

「練習しよう」とか始める声がかかったときはいつまでも話したりしていないですぐちゃんとならんで声を出すのがあたりまえだと思う。声がかれていて声が大きく出なくても、口を開けることくらいはできるから、自分は練習に参加して、努力しているということを表現しないといけないと思う。朝せっかくはやく来ても、やらないと意味がない。練習をしようとする姿勢が大切。みんなでやらないと意味がない。一人一人が声を出してやらないとクラスはまとまらないし、合唱もうまくならない。
 
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何が到達点(目標)か
 目標は、クラス全体がまとまって歌うこと。

全体でなにをしていくべきかは、やっぱり声を出していない人がいたり、口はあいていても声が小さい人がいるので、声をちゃんと出して、とにかくがんばってほしい。
あと、集合時間は五十分なのに集まるのは八時で歌うのは八時五分くらいじゃあまり意味がないと思う。歌の練習があるからと早く来ていても、他の人が遅く来ていたんじゃ朝早く来て練習する意味がないと思う。だから、やっぱりこの時間に集合と決まったんだったら時間厳守するべきだと思う。
まず、そこからまとまりがないと思う。

個人として何ができるかは、やっぱり一生けん命歌うだと思います。ちゃんと口をあけて声を出して、とにかくがんばるだと思います。
 
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 何が目標かというと勝つということだが、結果よりもみんなで協力して歌い、練習することが大事だと思う。
 そのために、ある程度はまじめに歌うことが必要だと思う。楽しむということと、ふざけるというのはちがうと思う。
 
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 まず合唱祭とは各クラスの団結力みたいなものをみるものだと思う。その中でクラスの目標はあきらめずやり抜くことだと思う。このクラスの傾向としては、やる時はやる、やらない時はやらない、という風な感じである。全体でやろうとしても合わない時がある。そういった時には、仲間同士で声をかけあったり、注意しあったりすればいいと思う。合唱というものは、男子と女子のパートの声がはじめて合わさった時を「合唱」というと思う。「コスモス」をただ歌うのではなく、このクラスで作り上げていくものだと思う。一人ひとりが一生けん命やりぬいていけばいいと思う。
 
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 もうすこしで4月。中学3年生になる。
 中学の中の1番の先輩。それまでの間に一体なにができるだろうか?
 2月19日に合唱祭がある。どこのクラスもそれぞれのパートを合わせて一生懸命練習している。このクラスもその1つだ。
 クラスみんなでがんばる。でも、まだ精一杯の力を出しきれていない。もしみんなで精一杯力を出しきればどこのクラスにも負けない歌ができると思う。そのためにはまず、1人1人が力をつけるべきだと思う。
 あと、賞をとるだけのためじゃなくて、みんなで力を合わせて合唱祭に臨みたいと思います。
 
 
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 以上38名
 明確な誤字脱字、1行の文字数(改行)以外は可能な限り忠実に原稿用紙から転記する。
意見の順は、ほぼ書き終わって提出されていた順。(紙面の都合で若干ずらした所もある)
 到達点・目標は、もちろん金賞というのもあるけど、クラスの良い思い出に残るというのも大事だと思う。
 7時50分集合と言っても、集まってない人が半分以上いる。男子のほうが人数が多いからそう見えてしまうのかもしれないけど、男子のほうが集合時間を守っている気がする。集合時間を全員が守れば、50分〜00分まで発声れんしゅうをして、00分〜10分まで2曲とも、うたう時間は十分にあると思う。このまま、集合時間を守れないなら、朝つらい思いをして早起きをする意味がないと思う。
 個人としては、朝練をがんばって、たとえ金賞がとれなかったとしても、このクラスの思い出をまた1つ増やしたいなと思う。
 
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 私はもともと、こういうクラスで何かをしたり団体行動は好きじゃありません。もし合唱祭が自由参加だったら出ないと思います。昨年の合唱祭では体調がよくなかったという事もあったケド、自分がやりたくなかったので勝手なことをしてしたりしていました。その時は気付かなかったケド、今になって自分がやっていた事がどれだけ皆に迷惑をかけていたか分かりました。
 私も経験があるのでやりたくない気持ちやめんどくさい気持ちはよく分かります。だけど、まとめてくれる人、合唱が少しでもよくなるように努力してくれる人が一人でもいる限りその人についていかなきゃいけないと思います。もし、この意見交換の後でもふざけたり、参加しない人がいるなら、合唱祭の本番でも舞台の上でふざけたりしてればいいと思う。練習でも本番でも変わりなくふざけられる人だけテキトーにしてればいいんじゃないですか。
 
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 朝レンは、もちろん真面目にやっている人はたくさんいるけれど、その中で全くやる気がなさそうに歌っている人もいます。やる気がない人は、真面目にやっている人にとても迷惑だと思います。朝早く起きて、いつもより早い電車に乗って、そこまではできているのだから、練習ももっとしっかりやってほしいです。指揮者の人も、「やった事ないんだもん」ではなくて、もっと自ら練習してみんなの前に立ってほしいです。
 
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 合唱はクラスがまとまってやるものだから、バラバラだったら絶対にできないと思う。
 合唱は賞をとることが目的じゃなくて、クラスが団結して最後までやり通すことが大切だと思う。自分だったら最後までできた時、よかったなと思う。
 その団結してやるためには、まず、指導者(リーダーや指揮者)が中心で、まとまることが大事だと思う。クラスの人も大事だ。
 個人としてやるべきことは、まず、クラスのリーダーの指示にすばやく対応して、すぐにできるようにすることだと思う。
 
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 男子がほとんど歌っていないとか言っているけれど、がんばって歌っている人もいるからだいじょうぶだと思う。それに、歌うときはちゃんと歌っているからいいと思う。
 
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 到達点は合唱祭で成功させること。
 目標はうたいきること。
 全体では男子が女子につられないようにする。
 個人では歌詞を覚えてみんなについていく。
 後、クラス全員で歌うことが最後だとしてもやりたくてやっているわけじゃないから、あまりやる気にはなれない。女子ががんばっているとしてもあんまりがんばる気にはなれない。
 
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 合唱祭は私にとっては、この学校の一年の行事の中で文化祭などより重要だと思う。
 なぜかというと、クラスが一つにならないとできないし、達成感が得られるからだ。
 去年は、女子はまぁそこそこ自分達なりにがんばるということができて、男子も、リーダーがすごく真剣にほめたり、怒ったりしてくれてとても良い合唱ができた。
 今年は、女子はいつもどおりに行くけれど、男子のリーダーの必要性があまりみられない。
 誰かまとめ役がいなければ、みんなだめになってしまうことは目に見えてわかる。
 だから、やっぱりリーダーは的確な判断と自分達の必要性を尊重して、まわりもそれにこたえていかなければ意味がないと思う。
 一人一人の意見を大事にして、歌ってて悪いと思う点を言っていった方がいいと思う。
 とにかくラストスパートかかっているんで、しっかりやる気をだしてがんばりたいと思います。
 
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 このクラスについて・・・
 私は合唱で賞をとかはどぉでもいいと思ってます。ただ Because このクラス最後の行事だしみんなで協力して成功させたいと思っているカラ練習もしっかりやりたいです。そして大成功、みたいな。
 そのためにはやっぱり全員が合唱に対してやる気を出してもらえないとムリなんだと思います。いくら言ったってやる気がナイとイイ物は作れないし・・・。
 だから1人1人の"やる気"が大事ナリッッ
 
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 そもそも何のために合唱はあるのか。歌って何の意味があるのか。個人個人の意見もあるだろうが、、私は『人に感動を与えるため』だと思う。何も考えずに歌うのは時間と労力のムダづかい。自分達が歌っても他人が歌っても同じような感じになるのなら、私は歌いたくない。『何が目標か』それは『自分たちで歌に表情や色をつけられること』だ。課題曲は2年全クラス同じ曲だから、きっと何クラスも同じ歌をきいていたら誰だって飽きる。少しサビを強くするとか、最後をおそくするとか、それだけでずいぶん違ってくると思う。それが完成したら、自然と賞はついてくるんじゃないだろうか。そのためにはよく歌詞を読み考えることが大切だと思う。作詞家は何でこの歌詞を書いたのか。それは通学中の電車の中でも空いている時間があれば誰でもできる。もちろん全体個人関係ない。あとは自分のやる気。クラスのためにがんばれるという気もちが必要だと思う。
 
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 私は今までの練習や努力に後悔がないようにしたいです。しかし、このままではたとえ当日賞がとれなくてもしかたないなぁで終わります。最初は朝早く学校に起きて練習するなんてやりたくないなぁと思っていました。しかし朝練で頑張ってくれている、伴奏者の子や女子をしきってくれているリーダーを見てたら自分も頑張ろうと思うようになりました。しかし、今日の男子は歌う気があっても声が出ないのか、ただやる気がないのかは私には分かりません。本当に声が出なかったらしょうがないですけど、やる気がないのならいない方が場の雰囲気がくずれなくていい。そして、当日も舞台に出てほしくない。
 でも、そんな風にしてこのクラスとして最後の行事を終わらせたくないから、残り五日間せいいっぱい皆でがんばって、いい一年間でおわらせたいです。
・目標…賞を取ることに力を入れるのではなく、一人一人が自分の力を出すことに力を入れる。
・全体で何をすべきか…一人一人がもっているものを出しきる
・個人で何ができるか…恥ずかしがらずに俺の持っているものを出してみんなの手本になる
 
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 ぼくは、合唱祭の練習について、全員でやるからこそ、意味があると思ってはいるが、必ずしも、みながみな調子がよくていつでも歌えるじょうきょう下にあるというわけではないと思う。
 今回の音だって、かぜをひいている人もいれば、週あけで、声が出ない人だっていると思う。たしかに、歌ってない(やる気がない・めんどくさい)という人はいなくはなかった。たまたまそれが、かさなってしまったのだと自分は思う。
 まあ一人一人が努力をし、がんばるというのは大事だけれども、やはり、しかたのない時だってある。
 全体でどうかといえば、みなではげましあい、歌い、指導者が出て、練習するのも、ありだと思うが、やはりその中でも「そんな、きずのなめあいして何がいいのか?」と思うやつもいるはずだ。僕個人の意けんとしては、みなが改心し、がんばればいいと思う。
 
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○目標 合唱を通してクラスの団けつ力を良くすること。
○全体で何をするか 決められた練習時間の中で集中して歌う。
○個人で何をするか 朝レンだったら遅刻をしないようにするや、声を精一杯出すこと
をするなど。クラスにめいわくをかけないこと。声を出さない人は何ごとにもヤル気がない人だと思うので何ごとにもやる気を出すところからはじめた方がいいと思う。あと声を出さなかったら男女かまわず注意した方がいいと思う。
 
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私は、自分の心に残るような合唱祭にしたいと思っています。賞をとっただけでは少しさみしい気がします。だから、その賞をとるまでの練習を大切にしたいのです。
 朝の練習、放課後の練習、一年の中でその日しかない時間を、気分的に歌いたくない、めんどくさいなどと考える人たちにとられているような気がします。そういう人たちがいなくなるだけでみんな気持ちよく歌うことができると思います。
 となりの友達が歌ってないから自分も歌わなくていいという考えはやめてほしい。そして自分から「歌おう」と声をかけてほしい。
 合唱祭はみんなでつくるもの。普段仲良くしていない子だからほっておこうというのではなくクラスみんなで力を合わせるべきだと思います。
 
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・練習中、歌を全部通して歌うとき、近くの男子数人が話していた。皆で懸命にやっている中、そんなことをするのは許されないので、仲が良い者同士はなるべく散らばす。そして喋っている者を注意する。あるいは制止。
・合唱のリーダーの指示があるとき、周りがうるさい時がある。常に静か(話は控えめ)にして、指示に従うように心がける。
・歌う時によっては体調が良かったり悪かったりするが、気分で歌い加減を決めるのは良くないと思う。だからその時の体調で精一杯歌えるように歌うようにする。
 
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(1)○○が大きな声で歌っているときは、自分も普通に歌えるが、○○が歌わないと自分は不安になってしまう。ふざけているグループの中心人物が歌い始めたら、周りも歌い出す。歌う時、中心人物が、常に大きな声を出していれば、良くなると思う。
(2)合唱する時の配置を正式に決めた方が良い。
(3)リーダーとは別にクラスの誰もが認める指導者を決める。
(4)男子にとって合唱は正直言って過酷だ。
 女子は声も安定していて歌いやすいと思うけど、男子は歌に慣れていない。
(5)風邪をひいていて、のどが痛く声もうまく出せないのに、まじめに歌っている人のことも、考えてもらいたい。
 
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合唱について

何が到達点・目標か
 到達点・歌うことの到達点は、合唱コンクールの本番にあると思うけど、クラスの協力の到達点は、もっと先にあると思う。
 目標 ・ 自分的には、クラスで協力するコトが出来る様にする!!ってコトだと思うし、あと残り少ない時間でみんなとの思い出を沢山残したいと思います。
 全体で何をするべきか?・朝とか練習する時には、真面目に歌う。もっと皆の意見をきく。(パートリーダーとか) で、それに反論がある時は、周りに言うんじゃなくて、皆に言った方がいいと思う。(これは、女子も男子も。)
 個人として何が出来るか・けじめをつける。文句を言わない。
 PS. 先生へこのやり方にすると誰がどの意見を言ったかわかりません。そうするとイイ点も出てくるケド、いつもまじめにやっていない人の意見がどれか分かんないんです。男子のふざけている人たちが合唱祭のコトをどう思っているかききたいんデス。
 
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 今週の土曜にせまった合唱祭で、何を目標にしたら良いかというと、やはり優勝するということよりも、賞をとれなくても後で良かったと思えるようにした方が良いと思う。なぜなら去年の合唱祭で私のクラスは残念ながら一つも賞をとれなかった。しかし、今思えば良い思い出になったと思う。そう思えるようになるには、クラス全体がになるように練習する必要があると思う。今までクラス全体が協力するという機会が少なかったので、絶好のチャンスだと思う。なかなか、クラスが一つになるというのは難しいが、それでも一人一人がしっかりと熱意を入れて練習していけば、絶対できると私は思う。一人でもサボるような人がいれば、良い結果は出ない。残り少ないこのクラスの生活で、最後の大きなイベントだから、力を入れていきたいと思う。男女共に協力して、後で良い思い出になるような、合唱にしていきたい。
 
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 私は、合唱祭は金賞とか賞はねらわなくてもいいと思います。賞の事ばっかり考えていると協力が出来なくなる気がするからです。やっぱり合唱祭は歌を歌うんだから自分達が発表している時に楽しまないと意味がないと思います。
 そして、男女協力するためには1人1人がちゃんと合唱祭にでるという自覚をもった方がいいと思います。私達38人の発表のためにある10分(くらい?)という時間を私はムダにしたくないし、きいている人達にもムダにさせたくありません!!!! なので皆も、もっと自覚をもって下さい!!
 あと、練習をしている時にソプラノとアルトだけがきれいにハモっていてもさびしいのでテノールもがんばって声をだして下さい。お願いします!!!
 
 いよいよ今週が合唱祭。
 生徒たちが朝に歌の練習をしている中で教室に入る。
 
 通しの練習の途中、不意に声が聞こえなくなった。
 合唱の途中で、声がとぎれたのである。
 
 迷いもしたが、国語の時間の一部を使って、38人全員の「合唱への意見」を書いてもらった。
 
 すべて学級通信にして印刷する。
 
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 合唱について。
 ☆今回の合唱で目指す、到達点・目的は何か。
 ☆その到達点・目標に対して、クラス全体で何をするべきか。
 ☆その到達点・目標に対して、個人としてできることは何か。
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 まず去年ではありえないことです。この文書のようなものは三年になってまでも書きたくはありません。
 今回私は(あえて「私」と書きます)去年とおなじような感じでやっているつもりです。別に賞はとろうがとらないが関係なくやっています。つまり目標は特に無いんです…。あえて言うなら、練習をサボってるやつらを歌わせるぐらいかな…。
 こいつらを練習させるには、しゃべっている人どうしを分離させるのが一番なので、グループを作った。のはいいんだけれども、はっきり言ってグループ意味ないです…。だからもう時間もないので本番と同じ列で全体練習させる方がてっとりばやい気がします。あと、リーダーの言ってることがすべてザワザワでかき消されて、男子のはじっこほど聞こえない所はないです。ですからしゃべっているバカどもを練習の時だけ前の列に置き、そしてT先生系列の人をかん督として練習現場に居させた方がバカどもをだまらせるには丁度良いと思います。
 個人としては帰りながら練習をしたり、あとは練習に専念するだけ。
 てか、イライラすんのは私だけ??
 イライライライライライラってたまになりますね(笑)
 では終わり
 
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 まぁ自分としては「無理矢理」の練習じゃなく「協力と団結」でもない。歌詞だって間違えるし必ずしも期待に沿える発表はできんだろうが、とりあえず「個体」として「全体」として後悔しない発表になれば誰も文句は言うこともないだろうし悔いのない2年生終了になる。しかしながら昨年度の我がクラスの発表は完成度こそ高かったが、全員が満足にならん終わり方だった。皆まじめに歌ったし練習もかさねた。なのに大失敗。満足する奴は一人たりともいないはず。団結しているが故に落ち込みも酷かったが、原因は一つ。大声で堂々と歌えなかった。いくらきれいな音も届かなければ意味なし。だからこのクラスには全力で、堂々と、なおかつ歌の雰囲気が出せるよう歌いたい。(難しいのは分かっているがな)

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合唱について
 
全体で何をしていくべきか?
 (1)おたがい注意しあって上達する
個人として何ができるか?
 (1)自分一人でも歌う
到達点 賞をもらうこと
目標  一日一日を大切にし、上達する
自分の意見
 僕としては、おたがい楽しくできたらいいと思う。むりやりやってもダメだと思う。やる気がない人は、やる気をだすまでまつ。男子のいいところは、やる時はやる。
 
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  目標は特にないし、到達点も特にない。実力があるものがしきりすぎだと思う。
 尊敬している人でもないし、目上の人でもないのに命令されると、やる気をなくす。
 個人としては、特にない。
 
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 目標→クラス全体で出来る限りの頂点
 何をしたらいいか?→1人1人が声を出すようにする。歌詞の意味を考える。分からないとこは先生や、合唱リーダーに聞く。暗譜する。音を覚える。
 
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  目標は合唱祭を無事終えることだと思う。この目標を達成するにはやっぱり練習が必要だと思うし、もっとやる気を出すというのも大切だと思う。
 個人としてはあまり合唱にやる気はないが、このクラス最初で最後なので今までよりはやる気を出そうと思った。
 でも、やっぱり合唱は面倒くさいし、早く終わってほしいと思っているのは確かである。理由の一つとして朝早く学校に行かなければならないからである。
 でも、ちゃんと合唱を終えようとは思っている。
 
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 この合唱祭は賞をとることが最も良いわけだがクラスが一致団結してまとまれば一番良いと思う。見ている人が「まとまりがある」 そして、声の大きさなどにメリハリがあるようになればいい。
 練習の時はリーダーの指示は必ず聞くべきだと思う。リーダーは全体を見るだけでなく、一人の声が出ているかとか姿勢などに注目して指導していけばいいと思う。
 
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悪いところ
・リーダーがあまり活やくしていない
・男子にあまりちゃんと歌ってない人がいる。けれども女子にもわざと変な声を出して歌ったりしている人がいる。=ふざけてる人がいる
・歌詞をおぼえてないのに何もみないで歌っている人がいる。その結果あまり声が出てない。
・歌う時のならびがよくわかってない人がいて、なかなか始まらない。

・まず全員歌詞を憶えてない人は憶える。
・リーダーがいるので、そのリーダーがきちんとみんなをまとめていったほうがいい。
・みんなが協力して机を動かす。
・まだ遅れてくる人がいるのでその人は早くくる。
 
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 合唱をすることの目標があるとは、思えない。人に言われてやってもその時だけだと思う。それに注意をする時の言い方があると思う。個人としては、人にめいわくがかからない程度でいい。
 
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・合唱はがんばった結果がすべてだから、きちんと歌ってほしいし、賞が欲しいんであれば、気持ちよくもらいたい。
・具合が悪くてもがんばって学校へ来て練習している人がいるからその人の努力を尊重してほしい。
・歌わないのはなにか理由があるはずだし、それをきちんと言ってほしい。
・リーダーだけの責任ではないから、みんなが注意し合ってやっていくものだと思う。
・目標や到着点は人それぞれにあるはずだから個人でその目標に向かって行くべきだと思う。
・無理やりやっても最後に賞をもらってもあまり「うれしい」と言う感情がないから、歌っていない人をあまりせめすぎると、それもかえっていけないと思う。あたたかく見守ったり迎えるのも大切だと思った。
・最後に涙を流れるような合唱をしたい。
 若い人ほど今日を気にするんだよね、きっと。
 
 職員室で聞いた話。
 中学1年生の男子が、今日整髪料きめて学校に来たらしい。
 今までそういう様子の全然なかった子だけに、担任は笑いをこらえるのに必死だったらしい。
 「もっと前からやれよ〜。当日は勝負の日じゃないんだからな〜」と。
 これで明日からもとのお坊ちゃんになったら、さらに笑いをこらえないといかん、なんて言ってました。
 
 かつてバレンタインデーに女子生徒だらけになって仕事にならなかったということがあったので、中等部職員室では「バレンタインデーでも学校には私物持ち込み禁止!」となっている。
 もちろん今年も。
 で、せきねの役割は生徒指導なので、統一見解どおりに「バレンタインだろうと学校内に菓子などを持ってこない。プレゼントのやりとりなどは学校外でしなさい」と言っておいた。
 なので、せきねの目に見えるところでは今日であっても特に何もない。
 
 ここらへん、若い先生はあまり言っていなかったみたい。なんかもらっていたようです。まあウチのクラスの生徒でもないので何も言いませんでした。無粋ですので。
 
 どうせ(というかそうでないと困るんですが)プレゼントの表面には「義理」ってことのほか大きく書いてあるので、せきねはもらわない方が良かったりして。なんかお歳暮をいただくようで、気が引ける方が先になってしまう。正直言って、何もない方が有り難い。
 
 だってさ、自分が好きな人ただひとりからプレゼントもらえれば、それでいいと思わないか?
 
 せきねの知っている高校生たちは受験で学校に来ていないから、返しのプレゼントも考えずに済みそうだ、なんて少しほっとしていた(あんまりセンス無い返しを選ぶのはヤだな、でもよぅ判らん、と思っていた)のです。
 
 なんですが。
 
 ……頂戴しました。
 う゛〜む。
 嬉しくなくもない。まあ、ね。
 
 でも。
 
 キミたちさぁ、義理でもキミらから欲しいと思っている子はきっと居るよ。なのにヲヤジにくれちゃって良いわけ?
 
 中学生たちの人間関係を全く知らないわけでもないせきねは、けっこうマヂで思う。
 う゛〜む。
 たとえば……アヤツはもらえているんだろうか。
 仮に義理と百遍言い張ったって、プレゼントもらったら空飛ぶように踊りまわるゾ。
 ま、子どもっぽいと言えばそうかもしれないが、あれでなかなか純粋なところもあるんだよ。悪いヤツじゃないと思うけどなぁ。
 
 う゛〜む。
 人間関係って、ムヅカシイなぁ。
寒風 吹きすさぶ日々
 
 
 我が校の入学試験が、ひととおり終わった。
 
 大きな事故もなく終えることができたのは、補助員として入試を手伝ってくれた生徒の活躍があってこそであった。
 せきね組からも、9人が参加してくれた。
 朝早く6:30には学校に集まり、指示を受け確認をし、駅から学校までの案内に立ったり、校内の誘導をしたり、試験時間中も廊下で待機したりした。受験生の付き添いで来た保護者の方へ応対をする仕事もあった。
 国語・算数・理科・社会の試験が終わったあとに、各教室の片付けも行った。
 
 すべての教職員が真剣で、張りつめた1日を送る。当然のことであるが、入学試験の一切に、決して誤りの無いようにする。点検の上に点検を重ねる。
 そうして教職員が集中できるのも、補助員の働きのおかげであると言ってよい。
 
 また、不安の大きい受験生たちが落ち着いて、持っている実力を発揮できるように、心を尽くした応対をする補助員の姿も、そこかしこで見受けられた。
 受験生を激励しに駆けつけた塾関係者の人たちひとりひとりに使い捨てカイロを手渡していったところ、かつて勉強を教わった先生に出会って大喜びをしたという場面もあった。そして、「先輩に続け」と塾の先生が受験生に声をかけている姿もあった。
 
 誠実に補助員をつとめあげたその姿は、本当に尊いことである。
 有り難いことである。
 
 入学試験があれば、そこには残酷なぐらい明快な合格と不合格がある。
 結果によって確実に、受験生たちの未来が変化する。
 
 我が校であれ、他の私立であれ、あるいは公立であれ。
 進学したその先に何があるかは、じつのところ誰にも判らない。
 
 大変で、楽しくて、毎日いろいろなことが起こって充実した中学校生活かもしれない。
 つらくて、苦しくて、思うようにならない中学校生活かもしれない。
 
 せきねの仕事は、毎年のべ10000人ほどの受験生たち・保護者たちの人生とすれ違う。
 学校見学会。
 学校説明会。
 塾訪問。
 入学試験。
 合格発表。
 入学者説明会。
 そして、幾人かの未来が変わる現場に立ち会う。
 1月、2月、せきねにとって、それがとても苦しい日も多い。
 なのに、「この子が全力を出せるように」「この子にとって最も良い未来となるように」と祈るような気持ちで、なけなしの誠実さをもって振る舞うぐらいしか、実際にできることがない。
 
 だからこそ、がんばって補助員の仕事をしてくれた生徒たちの姿がうれしい。
 
 
 いずれにせよ。
 何人かが新たに我が校に入学し、君たちのことを「先輩」と呼ぶようになる。
 新たな春。その時までには。
 君たち自身、「先輩」と呼ばれるにふさわしい姿になってほしいと思う。
【識別】……教科書によって違うので注意!

(1)終助詞を、各人に熱く脈打つ大和魂で見分ける。
 
(2)格助詞を、見分ける。
 ☆主として体言の後に付く
 ☆10コ覚える
  空部屋で殿が鬼より(格助詞を習う。)
  「から」「へ」「や」「で」「と」「の」「が」「を」「に」「より」
  志村けん扮するバカ殿が、鬼のような家老から学習を強いられていると想像する。
 
(3)接続助詞を、見分ける。
 ☆活用する語(動詞・形容詞・形容動詞・助動詞)の後に付く
 ☆12コ覚えてもよい
  けれどもとてもバカらし〜ので点が足り(ない)ながら野に(遊ぶ。)
  「けれども」「と」「ても」「ば」「から」「し」「ので」「て」「が」「たり」「ながら」「のに」

(4)残りは副助詞。
わたしには夢がある (I have a dream.)

 アメリカでは、歴史を変えた4人の偉人の誕生日(またはその人にちなんだ日)を祭日としている。その4人とは、
 コロンブス(10月、アメリカが発見された日)、
 ワシントン大統領(2月)、
 リンカーン大統領(2月)、
 マーティン・ルーサー・キング牧師(1月)である。

 キング牧師は1929年1月15日、ジョージア州アトランタに生まれた。
 世界中を巻き込んだ第二次世界大戦も終わり、自由と平等が実現された国のように思われていたアメリカ。けれどもこの国でさえ、まだ人種の平等はなかった。南部の州のほとんどが、人種隔離制度をかたくなに守り続けていたのである。それは、公共施設に始まってバスの席に至るまで、徹底的に白人用と黒人用を分けるものであった。
 そして、黒人には不当な差別を撤廃する政治家を支援するための選挙権さえなかった。そんな隔離制度を撤廃し、黒人に選挙権を与える公民権運動に立ち上がった指導者が、キングであった。

 キングが運動に参加し始めたのは26歳。以来、反対派や州警察からさえ何度も暴行を受け、投獄され、胸を刺されて危うく一命を取り留めるということもあった。家に爆弾を仕掛けられ家族を殺されそうになりながらも、「暴力には魂の力をもって応えなければならない 」と訴え、あくまでも非暴力による運動を指導するのである。
 彼は、インドのガンジーによる非暴力主義を、人種差別をなくす運動の手段とし、魂の力によって戦ったのであった。そして牧師として着任していたアラバマ州のバス内での人種差別に抗議して、1955年から56年にかけて公営バスのボイコット運動をし、これを非暴力の行動によって成功させる。

 キング牧師は説き続けた。
「闘いの本質は、白人に対して黒人が勝利することではない。すべての人の自由と平等という、民主主義の勝利を勝ち取ることである。それこそが、白人と黒人がともに見るアメリカの夢である 」と。
 ノーベル平和賞を受賞し、39歳で暗殺者の凶弾に倒れるまで。
 
 
 わたしには夢がある。
 いつの日にか、ジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷であった者たちの子孫と、かつて奴隷主であった者たちの子孫が、兄弟として同じテーブルに向かい、腰かける時が来るという夢が。
 
 わたしには夢がある。
 いつの日にか、わたしの4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人となりそのものによって評価される国に住む時が来るという夢が。
交響曲第9番「合唱つき」
 
 
 年末にさまざまな場所で聞くことができる、ベートーベンの"第九"。「歓喜の歌」とか、「よろこびの歌」とも呼ばれている、あの曲である。
 この"第九"、ベートーベンが病気で亡くなる2年前に作られた曲。なんと耳が聞こえなくなってから完成した作品である。
 もとの詩はシラーの書いたもの。ゲーテと並び称される、ドイツの偉人である。ベートーベンは22歳の時にこの詩に曲をつけたいと思い、54歳で完成させた。その間、32年。
 
 第4楽章のはじまりでは、男性がひとりで歌い始める(バリトンのソロ)。
 
  O Freunde, nicht diese Töne!
  おお友よ、このような音ではない!
 
  sondern laßt uns angenehmere anstimmen,
  そうではなく、もっと楽しい歌をうたおう
 
  und freudenvollere.
  そしてもっと喜びに満ちたものを
 
 それから、最も有名な旋律に乗って、まるで声が輝いているかのような合唱となる。
 
  Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium,
  喜びよ、美しい神々の閃光よ 楽園の世界の娘よ
 
  Wir betreten feuertrunken, Himmlische, dein Heiligtum!
  私たちは足を踏み入れる、炎に酔いしれつつ
  神々しい、あなたの聖所へと
 
  Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt,
  あなたの魔法の力は再び結びつける
  世の中の時流が厳しく分け隔てていたものを
 
  Alle Menschen werden Brüder,
  全てのひとは兄弟になるのだ
 
  Wo dein sanfter Flügel weilt.
  あなたのその柔らかな翼が憩うところで
 
 耳が聞こえないことが音楽家にとってどんなに致命的であることか、言うまでもない。
 ベートーベン自身も苦しみ、悩み、自殺をも考えたと伝記は言う。
 それでもこの曲では、「このような音ではなく」「もっと楽しい」「もっと喜びに満ちたもの」を求めているのである。
 
 そして、苦しみや悩みをはるか超えたところで「楽園」へ辿り着き、「分け隔てられていたもの」が「結びつけられる」。
 「全てのひとは兄弟になる」のである。
 
 今までが苦しかったら、その後もずっと苦しいままか。
 
 ベートーベンの生き方は教えてくれる。
 心の中に情熱さえあれば、人生でどれだけ大きなことができるかということを。
 何度くじけたとしても、あきらめなければそれでいいのだということを。
 
 せきねは年末に"第九"を耳にするたびに、こう思う。
 あともう少しだけ、自分の歩きたい人生を続けてみよう。
 「今まで」も大事。けれど、「これから」はもっと大事だから。
 
 今年一年、おつかれさま。 来年、元気でお会いしましょう。
今年の漢字は
 
 
☆2004年は、天災と人災に恐怖を感じた年
 
 財団法人日本漢字能力検定協会(本部:京都市/理事長:大久保昇)は、漢字の奥深い意味を伝授する活動の一環として、毎年年末に全国公募による1年の世相漢字を決定しております。
 本年も10月下旬から12月初旬までの間、2004年を表す世相漢字「今年の漢字」を全国公募した結果、過去最多の91630通の応募をいただき、「災」が20936票(22.84%)を集めて1位になりました。
 
 つきましては、2004年「今年の漢字」を「災」と決定いたします。
 
 「災」を選んだ理由には、台風、地震、豪雨、猛暑など、記録的な天災に相次いで見舞われたことをはじめ、イラクでの人質殺害や子供の殺人事件、美浜原発の蒸気噴出事故、自動車のリコール隠しなど、目を覆うような人災が多発したことが挙げられています。そんな中、次々と人災を起こす人間の身勝手さに対して、神や自然が怒ったように感じたという意見や、天災に対して人間がいかに無力であるかを痛感したという意見も多く、「災い転じて福となす」の諺のように、来年は福の多い年になって欲しいと祈るばかりだという意見が多数、寄せられました。
 
 なお、「災」は2位の「韓」に14000票以上の大差をつけ、全応募者の2割を超える票を集めています。また、3位「震」、6位「風」、7位「嵐」、8位「乱」、9位「揺」、10位「命」にも、「災」と同様の理由が見受けられました。ベストテンにランクインした漢字のうち半数以上に同じ理由が挙げられたのも、今年の大きな特徴です。
 
 ということである。「来年は良い年に」と心から思う。

 ちなみに、漢検のページ、けっこう見ていて楽しい。 http://www.kanken.or.jp/index.html
 「変"漢"ミスコンテスト」なんていうものもやっている。

○まとめてスト ←まとめテスト
 私の職業は、日本語教師です。仕事がら、テストを作ったりする機会も多いんですが、「まとめてすと」と入力して、変換すると、必ず「まとめてスト」と変換されてしまいます。見るたびにいつも「まとめてストされたら大変だろうなあ」と思っています。

○店頭無視の産婆 ←テントウ虫のサンバ
 昔みんなで歌うために歌詞カードを作ろうとしたときの誤変換。忘れられません。

○内容を理解したい王子には十分に注意 ←内容を理解し対応時には十分に注意
 上司からの社内展開のメールです。メールをあけた人から順にあちこちで吹き出した人、続出だったそうです。

○うちの子は時価千円でした。 ←うちの子は耳下腺炎でした。
 担任の先生にメールで連絡したとき、気づかないで送信して大笑いされました。まあ、妥当な値段でしょうが…

○将来ガキになりますね ←将来が気になりますね
 大学時代の先輩から、初のお子さんの写真をメールで送って頂きました。とてもかわいい子だったので、メールの返信でこのように打ってみましたが... とんでもない子になるイメージに変わってしまいました。
 部活動で、百人一首をやっている。
 たとえば雨天で運動部の活動ができなかったりした時など、部員以外にもけっこうたくさんの生徒がやってくる。
 
 それなりにのんびり楽しんでやるわけだが。
 今日の生徒たちは、遊戯王カードの話で盛りあがった。
 
 そして生徒たちは言うのである。
「センセ〜、遊戯王のカードの部活、やりたいっす〜」
 
 答えはひとこと、「だぁめ!」なのである。
 
「なんでですか〜」
「どーせそういう部活があったって、授業中にカードをこっそり出して見ていたり、全然勉強しなくなったりして、あっという間に禁止になって終わっちゃうことが目に見えているから」
 
 せきねが新しく文化部をやれ、という下命を受けたとき、千葉県内でwebページを持っている中学すべてと、東京にある主な私立中学(中高一貫を含む)とに作られている部活動を調べ上げたのである。
 そして、"生徒の受け入れる文化部"としては、アニメ研究会とか鉄道研究会とかいった部活動を新設したほうが良いのではないかという意見を述べたのである。
 
 結果は否であったから、今は百人一首をやっているわけだが。
 
 私立の、いわゆる有名な学校には、(現実的な活動状況はまた別な問題として)実に多彩な部活動や同好会がある。遊びっぽいなあ、と思えるような活動内容のものもある。
 逆に言えば、多彩な部活動や同好会があっても、学校全体には大きな問題はないのだろう。
 
 生徒には、そういういきさつを話した。
「開成とかだと、おもしろい部活あるんですかねぇ?」
「あるんだろ、きっと。もしかしたら遊戯王カードで遊んでいたりして、でもそれでも、勉強とはきっちり区別できるんだろうな」
「つまんないなー」
 
「問題は」と、敢えて言っておいた。
「開成は何年もの歴史が積み重なって、そういうふうになった学校なわけだ。ウチのガッコはどうなんだよ。中学が始まって数年なのに、宿題やらないヤツ居るわ、なんかカンチガイしているヤツ居るわ、ほんの少しの時間で『ダメだ』って大人に思われちゃうんだから、どうしようもないよな」
 
 生徒たちは「うーん」と考え込んでしまった。
 
 じつのところ。
 ある意味ひどいことを言われたとしても。
「それでもやりたいっす」と言ってほしかった。
「じゃあ、イヤだけど勉強していくしかないですよね」と言ってほしかった。
 自分たち自身が、今まさに歴史を作ろうとして最中であるということに気付いてほしかった。
 
 気持ちも能力もまだまだだな、と思わざるを得ないのは悲しい。
振り込め詐欺(≒おれおれ詐欺)に騙されないために
 
 
☆せきね邸の近隣のご婦人の話
 大学生の息子が自動車事故を起こした、という電話がかかる。落ち着いた男性の声で、息子の名前も知っていた。
 電話をかわります、と言って別の声が聞こえる。ときおりすすり泣くような若い男性の声で「母さん……母さん……ごめん」などと言っていた。「いかにも優しい性格の、自分の息子のような声だった、と思い返した今もそう思う」と言っていた。
 そしてまた、落ち着いた様子の男性が電話に出て、事故を示談にするために100万必要だ、と言うのである。動転して電話メモに書いたペン跡はぐちゃぐちゃ。
 いったん電話を切り、「お金を用意しなくては」と思っていたところに、普段から親しい友人から電話が来て、「落ち着いて、落ち着いて。まず息子さんと直接連絡を取って!」と言われて「おれおれ詐欺」の可能性に思い当たり、息子の携帯電話に何度も連絡をかけた。
 息子はそのとき大学の授業中で返事を返せなかったのだが、しばらく後に互いに確認を取り合って詐欺であったことが判明。警察に届けを出し、詐欺は防がれた。
 息子と連絡がつくまでの時間が長かったこと、長かったこと、とご婦人は言っていた。
 
☆やはり近隣の(上とは別の)ご婦人の話
 「そろそろ昼ご飯にしようかな」と思っていた時、いきなり電話がかかってきた。
 「△△警察の□□です。お宅のご主人が事故を起こしました。相手が示談にしてもいいと言っていますので、○万円を振り込んでください」とのこと。
 でも実は旦那さん、たまたま平日の休暇を取っていた。電話で応対している様子を何気なく見に来て、奥さんの表情が不審なのを知った旦那さん、電話を替わって毅然と「○○だが、ウチに何か用か?」と尋ねたところ、電話は無言で切れた。
 その後事情を知って、ふたりで大笑いしたという。
 
 一般的に「おれおれ詐欺」と言われているが、なんとか金銭を騙し取ろうとする手口は、どんどん巧妙になっている。
 少し前に、我が校のご家庭から「子どもを誘拐した」という脅迫電話があったと言うことも話した時があったが、それも詐欺を企んだ可能性も高いように今となっては思われるのである。
 有り難いことに、ご家庭からすぐに学校へ不審電話があった旨の連絡があった。
 その時にはせきねも含め職員室にいた教員が動いて、連絡のあった生徒が普通に授業を受けていることを確認し、また念のために欠席連絡のあった以外の全生徒のことを確認した。そうして何も異常のないことを把握して、混乱が拡大するのを防いだのである。
 
 何もなかったからこそ、後でいくらでも笑い話にすることができる。
 
 敢えて言おう。
 「平和な、安心できる生活を脅かそうとしている輩」「他人を不幸に陥れようとすきをうかがっている者」すなわち「我々の敵」は明確に存在している。
 そんな卑劣な奴らを喜ばせるようなことは、断じてあってはならないのである。
 
 日常の生活の在りようがいかに大切か、をこれらの出来事は教えてくれる。
 最初のご婦人の場合、親しい友人が居なくて普段の電話でコミュニケーションをとる事がなかったら、そのまま騙されていたかもしれない。信頼し合うことが万全でなくてケイタイに連絡が来ても平然と無視するような親子だったら、やはり返事を待ち続けることは難しかっただろう。
 二番目に挙げたご婦人の場合、休みになって競馬でも何でもどこかに行ってしまう旦那さんだったら、やはり騙されてしまうかもしれない。奥さんの様子を見てぱっと矢面(?)に立つような方だから、詐欺をあっさりとシャットアウトできたとも言えよう。
 我が校の話であれば、授業態度がぐちゃぐちゃであったり、好き勝手にどこかに遊びに行ってしまうような学校だったならば、「誰々が居ない!」と大騒ぎになってしまうだろう。
 
 
 警視庁のホームページには様々な情報がある。
 (安全な暮らし http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/anzen/sub0.htm)
 「振り込め詐欺」については、例えばこのようである。
 
 ☆電話がかかってくるのは、午前10時から午後2時までの時間帯がほとんど。
 (=金融機関が営業している時間帯) 
☆孫や息子、配偶者などを装い、「お金が必要になった。口座にお金を振り込んで」と言う。
☆お金が必要な理由は、交通事故の示談金、弁償費、借金の返済、妊娠中絶費用などさまざま。
☆後から○○さんから連絡が行くから」などと言って一旦電話を切る。
 または、すぐ別の人に替わり、後ろでは、ご主人、お子さん、お孫さん等を装って泣いている声がする。
☆「どうなってもいいのか」などと言って、不安がらせる。
☆銀行等の閉店間際に振り込みを要求してきて、「時間がない」と言って急がせる。
※最近は、脅迫めいた言動も見られます。
 「息子さんに車をぶつけられました」・「今日中に借金を返さなければ」・「滞納している家賃を払え」など
 
 
 では、中学生の諸君(もしくは君たちの兄弟姉妹)は、どのようにしたら自分の家庭が被害に遭わずに済むだろうか。
 
(1)外出する時は必ず、どこへ行くか、家族に告げる。
(2)何時まで出かけるか、だいたいの目安を明らかにしておく。
(3)予定が変わったら、その時点で連絡をする。
 
 おそらく、小学生の時から言われ続けていることであろう。しかし、これら当たり前のことがきちんとできていれば、「振り込め詐欺」の話のおかしさに気付きやすくなるはずである。さらに、
 
(4)携帯電話を持って移動している場合、家族からの連絡は必ず返事をする。
 
 よくいるのである。遊んでいる最中に家から連絡が来ると、無視してしまう中学生が。「遊びを邪魔したいから電話をかけてくる」ような家族なんて、居るわけがないのに。
 そして、なによりも。
 
(5)家族で語り合い、信頼し合い、励まし合う。"一家和楽"を心がける。
 
 どんなことにも崩れない、家族の絆。これに勝てる詐欺なんか無いのだ。
近況

☆美術。紙粘土で食品モデルを作成して、いよいよ色塗りに入っているようである。みんな楽しんでやっているようである。乾燥させるためにロッカー上に並べている途中の状態を見ると、なかなか形も良い。食べられそうだと錯覚するぐらい上手にできたらいいなあ、と思う。

☆音楽。合唱祭でせきね組の歌う自由曲が決まった。サザンの"TSUNAMI"である。
 これはまた難しい曲を選んだものだなあ、と思った。
 もちろんカラオケではないので合唱用にアレンジされているわけだが、ものすごく有名な曲だけに、聞いた人はどうしても元のバージョンと比較してしまうことであろう。そして、合唱曲としての良さを前面に押し出していかない限り、下手をすると普通の合唱曲よりもみすぼらしく聞こえるであろう事が予想されるのである。
 それでもクラス全員で候補を聴き、決めた曲だ。良い合唱にしていってくれるのだろう。今後の気合いの入れようが楽しみである。

☆某くんがこの1週間、朝の中庭で落ち葉掃除をしている。
 直接はルール違反が原因であるが、おもしろいのは他の生徒が手伝っているのを見かけることである。そんなにイヤそうでもなく、みんなで落ち葉を集めているのである。
 まわりからの友情が篤いのか、本人の人徳なのか。
 三国時代、中国各地を流浪する劉備の行く先々では、様々な人材が集い、負けに負け続けた劉備は最終的に蜀漢の皇帝にまでにのぼりつめた。
 さしずめ某くんは、"わかくして劉備のごとき気風を持っている"と評すべきか。

☆11月のほぼ1ヶ月、担任の決定した席順で授業を受けた。
 年度初めから、くじによる席替えであったが、授業中に騒がしいなどの理由でたびたび教科担当から注意を受けたこと、特別な理由もなく席を替えた者が居たことである。
 が、12月になって再びくじ引きによる席替えをした。
 「自分たちでルールを決めてやっていこう」という話になったからである。
 話し合いの結果、クラスの目標は「その日の時間数より多くの注意を受けない」となった。7時間授業+放課後講座であった場合は、1日を通じて8回より多くの注意を受けないようにしよう、ということである。(ただし男女別である体育は除く)
 もしそれが達成できなかった場合は、担任による席替え。教員による指導が届きづらかった者はより届きやすいように教壇近くの席へ、授業中に私語の多かった者は私語を慎むように遠く離された席へ、というようにおそらく替わる。
 それでも改まらない者については、ご家庭にも協力を仰ぐこととなるであろう。

☆人の振る舞いの是非は、必ず時間が明らかにする。
 端からどう見えようとも、真実の人は時とともに輝いていく。
 偽善の人はいつか色あせて、泥にまみれて誰も顧みることはなくなっていく。

☆漢字検定の結果が届いたので、昼に返した。(今日の国語は授業交換だったので)
 我が校の中2の目標は、3級合格。
 結果はそれぞれが受け止めてほしい。

☆"他と比べて"というのがイヤな人は多い。せきねもそういう視点は好きではない。
 ただ、それならばより厳しく自身の心に問わねばならない。
 「自分は本当に心の底から全力を尽くした」と言い切ることができるだろうか、と。
 決意したら、すぐに行動しよう。自身に勝て!
勇者メロス
 
 メロスは、けっこう不幸だ。
 若いのに父も母もいない。亡くなっていれば悲しいし、生き別れでもなおつらい。
 そもそも羊を飼って暮らしているのだから、そんなには金持ちでもないだろう。
 
 メロスは、ちょっとあわてんぼうだ。
 妹の結婚式の衣装を事前に用意しておくのは良いとして、日取りも決まっていないのにごちそうまで買ってしまうのは相当なせっかちだ。
 
 メロスは、かなり強引だ。
 いきなり見も知りもしない老人を捕まえて、「町の様子はどうなんだ」と詰め寄ってしまう。老人の方もかなりびっくりしたことだろう。
 「明日、妹と結婚式を挙げてくれ」って婿の牧人に談判しに行くのもすごい。「んなアホな。ちょっと待ってくれ」って言うほうが当たり前。それでも夜じゅう帰らずに言い続けられたら、そりゃあ仕方ないって返事をせざるを得ないだろう。
 自分の身代わりにセリヌンティウスを置いていく、っていうのも無茶である。真夜中にたたき起こされ、いきなり王城に連れてこられ、それで人質もないもんだ。
 
 そんな一般人(?)のメロスが、必死に走る。
 もしかしたら、のんびりと羊飼いをしている間に筋トレでもしていたのかもしれない。
 荒れ狂う川を泳いで渡った。また、山賊から武器を奪って3人も倒す。
 
 そして、途中で力尽き倒れた危機をも脱して、とうとう勇者メロスは走りきった。
 
 なぜ、完走することができたのか。
 なぜ、再び立ち上がることができたのか。
 物語には、「わき出ている清水を飲んで疲労回復した」とある。
 
 もちろん、それもあるだろう。しかしそれだけでは、「口から二度三度と血を吹き出し」ても町へと走り続けた理由にはなるまい。
 
 疲れて、疲れて、疲れきっても、メロスには信実や希望が赤々と燃えていたのである。
 
 人質としてメロスを信じて待ち続ける、セリヌンティウスがいたのである。
 
 
 中学生活、時にはうまくいかないこともあるだろう。
 懸命に生きているがゆえに、つらいことやイヤなことを多く感じることもあるだろう。
 
 日常で、学校生活で、勉学で、部活で、委員会で、人間関係で。
 
 そんな危機にこそ、抱える想いや親友たちが、自分を支えてくれる。
 暴君ディオニスのような者たちには、今のうちに笑わせておけばいいのだ。
 悪意の笑い、冷ややかな笑い、無気力の笑い、そんなものはいずれ消え去る運命だ。
 
 譲れない想いを胸に抱き。かけがえのない友人とともに。
 自身の弱さを越え、最高に充実した日々を過ごそうではないか。
ベルリンの壁
 
 
 第2次世界大戦(〜1945)では、ドイツ、日本、イタリアの同盟と、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦(今のロシア)などの連合国が戦った。その結果、ドイツは負けて4つに分割される。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連がドイツのそれぞれの地域を占領し、首都のベルリンも同様に4か国の間で分割占領された。
 
 アメリカ、イギリス、フランスは資本主義で国が成り立っていたので、占領していたドイツ、ベルリンでも、この方法を利用した。一方ソ連は、社会主義の国である。これは、国が計画を立てて、会社や工場の経営を指導するというやり方である。もちろん、ソ連はベルリンでもこの社会主義を取り入れて治めようとした。
 4か国は当初、平和なドイツを作ろうとしたが、資本主義と社会主義の方法の違いは次第にはっきりと現れてくる。(ここが、大戦後の日本とは大きく異なる点である)それにより、アメリカ、イギリス、フランスの3か国とソ連は険悪になる。
 
 仲が悪くなってくると、アメリカ、イギリス、フランスの3か国が占領していた地域と、ソ連が占領していた地域が、別々の発展をするようになった。3か国はベルリンの西側、それに対してソ連はベルリンの東側を占領していた。西ベルリンは資本主義、東ベルリンは社会主義に分かれるようになった。
 ベルリンと同じように、ドイツ自体もアメリカ、イギリス、フランスの3か国が占領する地域と、ソ連が占領する地域とに分かれた。西ドイツはドイツ連邦共和国として、東ドイツはドイツ民主共和国として、1949年に独立する。
 ベルリンという都市は東ドイツの真中にあったが、西と東に分かれたのである。資本主義側の西ベルリンは、対立する社会主義側に周囲を囲まれていたことになる。
 
 社会主義の方法が応用された東ベルリンや東ドイツでは、人々は自由ではなかった。工場や会社の経営は常に指示されていたからである。伝えられる計画は、実際に人々が働いている現場のことに配慮しないものもあったという。当然、働く人たちからは不満の声があがる。しかし、そうした不満をはっきり言うことは許されなかった。そこで、自由な西ベルリンや西ドイツに亡命する人がたくさん出た。その数は1年間に平均で20万人ほどであったという。
 
 多くの人が西ベルリンや西ドイツに行けば、働き手がいなくなり、東ドイツや東ベルリンは成り立たなくなる。社会主義の方法である、会社や工場の経営を国が計画することもできなくなる。そこで、亡命を止める方法はないかと考えられるようになった。
 労働者が西ベルリンに逃げ込むことができないように、東ドイツは壁を作ることを決定する。1961年8月13日の午前零時、東ドイツは壁作りを開始。
 まずは工事現場などで使う有刺鉄線を張り巡らせることで、人々の行き来を止めた。そしてそれを越えようとする人を止めるため、東ドイツはあちこちに銃を持った兵隊を立てて見張らせる。さらに有刺鉄線だけで完全ではないので、その後、コンクリートのブロックを積んだりして壁を作っていった。
 こうしてできたのがベルリンの壁である。東ドイツと西ドイツの境界線にも、同じように壁や金網などが築かれた。
 
 コンクリートの壁を作り、兵士の見張りもあったが、これだけでは乗り越えられることもある。そこで東ドイツは、もっと完璧な壁にしようといろいろな仕組みを作った。壁は1枚だけでなく、5mから数10m後ろにもう1枚作る。その壁と壁の間は普通の市民は立ち入り禁止にして、兵士が見張る。立ち入り禁止の場所は無人地帯と言い、監視塔と呼ばれる見張りのための塔をたくさん作ったり、人の気配をすばやく知るように軍用犬を配置したりもした。無人地帯の中にさらに金網を作り、電気仕掛けで誰かが乗り越えようとすると近くの監視塔に知らせる装置も開発された。
 
 ベルリンの壁が、単なる工場などの塀と異なって「ベルリンの壁」であった最大の理由は、射殺命令が布かれていたことである。ベルリンの壁を越えて西側に逃亡しようとする者は撃ち殺される、ということだ。
 東ドイツの国境警備隊で兵士達が聞かされていたのは、「国境を侵す者は祖国に対する裏切り者である。ドイツ民主共和国政府は、合法的に出国できる措置を講じているのに、それを利用しないのは犯罪であり国家に対する敵対行為である」という内容であった。亡命をしようとする者は、東独の経済や軍事に関する秘密を暴露するよう西側に強要されているのだ、ということまで国境警備隊では教えられていたという。西側に亡命した警備兵によると、ほとんどの兵士はこうした話を信用はしていなかったが、公然と反論することはできなかったそうである。
 
 東ドイツは「社会主義統一党」という名前の政党により支配された独裁国家だった。国民には政治的自由や言論の自由がなく、特に「国家保安省」と呼ばれた秘密警察による監視が厳しかったのである。一般市民の中に国家保安省に情報を提供する協力者がたくさんいて、例えば「近所の○○さんが政府を批判していた」というような密告が行われていた。
 しかも、この協力者であることは秘密にされたので、家族の中にも知らないうちに協力者がいることもあったようである。だから夫婦や親子の間でさえ、政府を批判するなどの会話は難しかった。家族といえど腹を割って話し合うこともできない状況である。国民は常に行動を見張られている、といっても過言ではなかった。
 
 このような体制の中で、1980年代を通じて、東ドイツでは国民の間に政治に対する不満が高まっていった。また、西ドイツやアメリカ、日本など西側の国に比べ商品の種類が少なかったり、質が劣っていることも事実だった。例えば車では、東ドイツで一般の人が買える車は2種類くらいしかなかったので、街中を同じ車が走っているようなこともあったのである。
 
 1989年10月ごろから、東ドイツ国内では自由化を求めるデモが多発するようになった。11月に入ると、政府も統制できないほどの規模になった。そして、11月9日の夕方、とうとう東ドイツは市民の自由な出国を認め、ベルリンの壁、東西ドイツ国境を開放すると発表した。しかも、この措置は即刻実施されると発表されたので、東ドイツの市民は夜にかけて続々とベルリンの壁にあった検問所に詰め掛けた。このニュースは即座に世界中に流されたので西ベルリン側からも人々が押し寄せ、検問所周辺はお祭り騒ぎのようになった。この一晩で数万人が西ベルリンに入ったと言われる。こうした経緯で"壁"は崩壊したのだった。
 壁の一部は、日付が変わった11月10日未明、興奮した東西両ベルリン市民によって破壊され、のちに東ドイツによってほぼすべてが撤去された。(ただし、歴史的な意味のある建造物のため、一部は破壊されずに残っている)
 
 ベルリンの壁の崩壊により東西ドイツの国境は事実上なくなり、ドイツの統一は加速されたのである。

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