なぜ「国語」を学校で勉強するのか。
 わたしはこのように答える。
 リテラシー能力を身につけるため。
 リテラシー(英:literacy)は、「言語により読み書きできる能力」を指す言葉で、元来「識字」と日本語訳されてきた言葉である。(wikipedia)
 
 ごく簡単に言うと「読み書き」のことであり、わたしの考える「国語」という教科の目的は、「読み書きする力を身につけること」である。
 
 言葉にすると簡単だけれども、実はかなり難しいのではないかと思う。
「人間が人間として存在できるのは言葉があるからだ」という大きなことを言うまでもなく、ごく当たり前にわたしたちはあらゆる言葉に囲まれていて、絶えず「読み書き」をしているのではないか。
 
 本や新聞などの活字を読むのはもちろん。
 他者と会話をすれば、その発された言葉だけでなく、口調や表情からも何かを読み取り、適切な返事をするために「リテラシー」が必要だろう。
 リズムやメロディーを気に入った曲がどんな意味か、「リテラシー」があれば、その音楽をより身近に感じることだろう。
 また、健康に関心を持ったものの「リテラシー」が無かったゆえに、テレビ番組の内容を疑わずに信じ込んでしまい、それが発覚してその番組が無くなるまで、誇大・虚妄の報道に踊らされてしまう危険もあるだろう。
 
 かくも「リテラシー」は重要なものなのである。
 そうであるからこそ、学校の「国語」は重要なのだ、と思っている。
 そして、重要であるならばこそ、学校の国語で、あらゆるものに対するリテラシー能力を持つことができる(もしくは「できる可能性」)を示すべきであろう。
 
 かくて、KOKIAの「ありがとう…」という曲と、それをBGMとして作られた「2ちゃんねる」のflashから、国語の授業案を考えた。
 「国語」の教科で身につけることを求めている「リテラシー能力」が、最も教科書から遠いと思われる言葉たちに通用し得るということを示したつもりである。
 
 「ありがとう」という言葉は、感謝の気持ちを表す言葉に決まっている。
 しかし、KOKIAのつけたタイトルは「ありがとう…」であった。
 「ありがとう」でも、「ありがとう。」でも、「ありがとう!」でもない。 感謝の気持ちを表す後に続く、この「…」は何なのかを、書かれている言葉を根拠に考える。
 そして、その読解には普遍性があるか否かを検討する。
 
 いつもいつもこのような授業をするわけではないのだが、国語の教員として、向上心を持って仕事をしたいな、と思っている。

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