試験の結果なんぞ「良い点数」であるのが、みんな一番の幸せであるはずである。
 
 教員だってにこにこしながら採点して、自分の仕事が楽しくなったり。
 保護者だって子どもが良い点数を取ればコヅカイでもやろうかなとか思ったり。
 生徒だってそりゃ成績が悪いより良い方が嬉しかろう。
 
 
 授業とは真剣な学びの場である。ゆえにせきね(仮名)が授業中に要求することは細かいし、しつこい。
 けれども厳しいだけが自分の本意であるというわけでは、無い。
 
 別に生徒を落第させたいわけでは無い。
 別に同僚とことを構えたいわけでも無い。
 できることならば、みんな明るく楽しいのが一番だと思っている。
 かといって安易に楽な試験ばかりを作り、それが卒業した後に何の進路にも繋がらないのではどうしようもないのである。
 だから。
 笑うべき時にきちんと笑うことができるように、きちんとするべき時にきちんとすることを求め、そして皆で喜べるのが一番なのだ。
 
 これは現在担当している生徒だけにとどまらない。
 今担当していない生徒たちに対しても、同じく考えている。
 
 
 もうどうしようもなくやる気の無い生徒は別として。
 少しでも成績を良くしたいと思う生徒に、自分は何かできることはないか。
 たとえ違うクラスであっても、「良い点でよかった」「がんばってよかった」と思えるような試験の結果に、繋がるようにはできないか。
 
 
 そうしてまずともかくも、他の担当の授業がどうなっているか知るべきであろうと思った。現状の認識から、何とかして向上の策を模索し、その策を学年で実施をし、国語全体の水準を引き上げる。
 
 
 担当しているクラスの授業を実習生に任せ、同じ時間に行われている他クラスに出かけていく。
 教科担当の許可を取り、教室の後ろに入る。
 
 ……そこまでだった。
 
 せきね(仮名)が、取り立てて目立つようなことをしたわけでもない。
 ただそっと教室に入っただけで、授業開始のあいさつもままならない、騒然とした状態になってしまったのである。
 
 これではどうにもならない。
 授業担当に謝罪をして、すぐにそこから撤退するしかなかった。
 
 
 もちろん、授業後に残っている板書からも得られるものは有る。
 料理人の見習いが師匠の料理の鍋に残ったスープを舐めて味の研究をするように、どんな授業が行われていたかをたどろうということには敏感でいたいと思っている。
 けれども、授業のその場にいて、40人の生徒たちの動きと教員の発する声の調子、板書のありようを見ることができるかどうかで、授業に対する理解は雲泥の差となるのである。
 
 もし仮にその授業形式に適したワークシートを作成し、学年全体で活用することができれば、"みんなが嬉しい"世界に到達できるはずなのに。
 
 
 課題があれば、まず現場へ。
 刑事ではないが、実情に即した善後策を立てるためには、現場である教室に飛び込まなければならないはずなのに。
 
 しかし、教室に行けば。
 「滅多にないイベントだ」と浮かれてしまう者。
 「自分は何も悪いことをしていないのに」と勝手に敵意を積み上げる者。
 
 これでは、どこをどうすれば良いのかという決断ができない。
 誰も嬉しくならない悪循環の入り口が足元にあるかのように感じてしまう。
 心の片隅で、生徒たちの無邪気さが、幼さが恨めしい。
 
 
 思い返せば。
 中等部のころからそうだったか。
 
 この生徒たちを担当して何度目かの苦い思いを、またもかみしめることになってしまった。

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