いとこから電話があって、甥が進学する高校を決めたとのことだった。
新入生説明会にも行ってきた、という。
「何はともあれ、自分で決断をした、ということがめでたい」と思う、と返事をしておいた。
甥が受験した高校にすべて合格したということは、そう大したことではなかった。
わたし自身が、甥を担任する同業者の性格や仕事ぶりを予測して、どんな内容の調査書を出すかがおおよそわかったこと。
参考書を選ぶ時に、ここ数年の様子を見てきていてベターなものをわかっていたこと。
塾を選ぶ際に見るポイントを伝え、いったんは体験入学し、その時の様子を聞いて、甥に合うかの適不適を判断したこと。
些細なことでも、あるいは恥ずかしいことでも、母親も子どももともに、わたしに正直に話したこと。
わたしが指示したことに信頼を寄せ、そのことを良く守ったこと。
余計な未練を持たなかったこと。
わたしを最大限に有効活用したゆえの、この結果であろう。
実際の技量は措いても、数年にわたって市販の学習参考書をチェックし、教育書に目を通し続けてきたわたしである。よほどの無茶を言わない限り、学習に対する適切な助言のひとつやふたつはできると思う。もっとも、大抵はそうした助言も適当なところで止まって役立たずになってしまう。「ほどほど」以上にはなっていかない。
学校に半ば見捨てられて、それですがりついてきただけに、とにかく言われたとおりにしてみよう、という考えになったのだろうか。
中高一貫から離れて高校入試をする、と決めた時期が早かった。
やらなければならない、と思った時期が早かった。
「行きたいという某学校と某学校を本番にして、あとは試験日が早めのところをふたつぐらい自分で考えて受験しなさい。受験慣れ、とかよく言うけどさ」
そう言ったら、こっそりとわたしが勤めている学校も受験して、合格してしまった。
全部終わって結果が出て、甥はわたしの家に来てごろごろしながら言った。
「全部が全部受かるとは思わなかったんだ。たしかに、けっこう解けたかな、とは思ったけどさ」
どうしようかな、んー、と言いながら、本棚から出してきたマイナーな漫画本を読むともなく考えていた。
「あのさ、前も言ったんだけど…センセの行っている学校に行こうかな、って思うんだけど」
「だめ」
「なんで?」
「おまえの為にならないから」
「そうなの?」
「そうだろう。選択肢がいくつあるにせよ、それだけは勧めない」
「どうして?」
「理由が聞きたくて、全部聞く気なら言ってもいいが。けれど、そもそもおまえが他人に『こうしていい?』と聞いてくる時点で、この選択になんらかの違和感があるってことだろう」
この甥は、迷ったら他人に意見を聞くなんていうかわいらしい性格をしていない。相手が大人だろうが誰だろうが、不器用にまっすぐに自己を主張してきた。
もし「この学校に行くのが最善だ」と思えば、まずそのように決断するはずだった。
けれど、そうではない。2度3度にわたって同じことの質問をするのだ。「本当にそうしていいのか」という保留の気持ちがあるのだろうということだと思えるのである。
ではどこで保留する気持ちが働くのか。
それは、このわたしがいるかどうかということなのだと思う。
そりゃあ、旧知の者がいれば安心だろう。しかし、安心できることと安易なこととは違う。これまでのいきさつを考えると、誰も知っている者が居ない場所で、一歩ずつ歩みを進めていくのが一番良いことだろう。少なくとも、生活のメインとなる高校に、わたしが居ることは良い影響を及ぼさないと思えるのである。
未来に対して悩むのは、そうでないよりもずっとすごいことだ。それだけ真剣だということだから。
けれども、いくら決断に迷っても、一歩踏み出すのは他人ではなく自分自身でなくてはならない。
もし入学したら、学校としては大歓迎だろう。
わたしは一度たりとて生徒をそのように考えたことはないが、進学実績を出す道具としたら、かなり良い道具なんだろう、と思う。
けれどもきっと、あまり成長できない高校生活になる予感がするのだ。今知っている生徒の中にこの甥を放り込んだら、性格の面でも成績の面でも対等な関係を作れる者はおそらく片手の指に満たない。
こたつに入り、腕を組んであごをのせている甥に、わたしが思っていることを全部話した。
「やっぱ、キビシイなあ」
それだけ言って、甥はじっとしていた。
いとこの電話が来たあとの夜に、甥からメールが来た。
「某校に行くことにした。今日は新入生説明会。男子校ってホントにどこ見ても男ばっかりだった。1から作っていって、良い高校生活を過ごそうと思った。これからもよろしく」
返事をした。
「おれも男子校だったし。いろいろ鍛えられると思うぞ。まあ何かあったらいろいろ言ってくれ。悪いようにはしない」
高校進学、おめでとう。
新入生説明会にも行ってきた、という。
「何はともあれ、自分で決断をした、ということがめでたい」と思う、と返事をしておいた。
甥が受験した高校にすべて合格したということは、そう大したことではなかった。
わたし自身が、甥を担任する同業者の性格や仕事ぶりを予測して、どんな内容の調査書を出すかがおおよそわかったこと。
参考書を選ぶ時に、ここ数年の様子を見てきていてベターなものをわかっていたこと。
塾を選ぶ際に見るポイントを伝え、いったんは体験入学し、その時の様子を聞いて、甥に合うかの適不適を判断したこと。
些細なことでも、あるいは恥ずかしいことでも、母親も子どももともに、わたしに正直に話したこと。
わたしが指示したことに信頼を寄せ、そのことを良く守ったこと。
余計な未練を持たなかったこと。
わたしを最大限に有効活用したゆえの、この結果であろう。
実際の技量は措いても、数年にわたって市販の学習参考書をチェックし、教育書に目を通し続けてきたわたしである。よほどの無茶を言わない限り、学習に対する適切な助言のひとつやふたつはできると思う。もっとも、大抵はそうした助言も適当なところで止まって役立たずになってしまう。「ほどほど」以上にはなっていかない。
学校に半ば見捨てられて、それですがりついてきただけに、とにかく言われたとおりにしてみよう、という考えになったのだろうか。
中高一貫から離れて高校入試をする、と決めた時期が早かった。
やらなければならない、と思った時期が早かった。
「行きたいという某学校と某学校を本番にして、あとは試験日が早めのところをふたつぐらい自分で考えて受験しなさい。受験慣れ、とかよく言うけどさ」
そう言ったら、こっそりとわたしが勤めている学校も受験して、合格してしまった。
全部終わって結果が出て、甥はわたしの家に来てごろごろしながら言った。
「全部が全部受かるとは思わなかったんだ。たしかに、けっこう解けたかな、とは思ったけどさ」
どうしようかな、んー、と言いながら、本棚から出してきたマイナーな漫画本を読むともなく考えていた。
「あのさ、前も言ったんだけど…センセの行っている学校に行こうかな、って思うんだけど」
「だめ」
「なんで?」
「おまえの為にならないから」
「そうなの?」
「そうだろう。選択肢がいくつあるにせよ、それだけは勧めない」
「どうして?」
「理由が聞きたくて、全部聞く気なら言ってもいいが。けれど、そもそもおまえが他人に『こうしていい?』と聞いてくる時点で、この選択になんらかの違和感があるってことだろう」
この甥は、迷ったら他人に意見を聞くなんていうかわいらしい性格をしていない。相手が大人だろうが誰だろうが、不器用にまっすぐに自己を主張してきた。
もし「この学校に行くのが最善だ」と思えば、まずそのように決断するはずだった。
けれど、そうではない。2度3度にわたって同じことの質問をするのだ。「本当にそうしていいのか」という保留の気持ちがあるのだろうということだと思えるのである。
ではどこで保留する気持ちが働くのか。
それは、このわたしがいるかどうかということなのだと思う。
そりゃあ、旧知の者がいれば安心だろう。しかし、安心できることと安易なこととは違う。これまでのいきさつを考えると、誰も知っている者が居ない場所で、一歩ずつ歩みを進めていくのが一番良いことだろう。少なくとも、生活のメインとなる高校に、わたしが居ることは良い影響を及ぼさないと思えるのである。
未来に対して悩むのは、そうでないよりもずっとすごいことだ。それだけ真剣だということだから。
けれども、いくら決断に迷っても、一歩踏み出すのは他人ではなく自分自身でなくてはならない。
もし入学したら、学校としては大歓迎だろう。
わたしは一度たりとて生徒をそのように考えたことはないが、進学実績を出す道具としたら、かなり良い道具なんだろう、と思う。
けれどもきっと、あまり成長できない高校生活になる予感がするのだ。今知っている生徒の中にこの甥を放り込んだら、性格の面でも成績の面でも対等な関係を作れる者はおそらく片手の指に満たない。
こたつに入り、腕を組んであごをのせている甥に、わたしが思っていることを全部話した。
「やっぱ、キビシイなあ」
それだけ言って、甥はじっとしていた。
いとこの電話が来たあとの夜に、甥からメールが来た。
「某校に行くことにした。今日は新入生説明会。男子校ってホントにどこ見ても男ばっかりだった。1から作っていって、良い高校生活を過ごそうと思った。これからもよろしく」
返事をした。
「おれも男子校だったし。いろいろ鍛えられると思うぞ。まあ何かあったらいろいろ言ってくれ。悪いようにはしない」
高校進学、おめでとう。
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