学級通信第67・68号。
2005年12月22日 学校・勉強 面談の場にて、後期中間試験の結果を保護者の方々にお渡しした。
個別の結果についてはよく反省をして、それをていねいに書いて提出してほしい。
「反省する」とはまことによく聞く言葉だが、それは一体どういうことか。
ただ気分を落ち込ませて「次はがんばる」とのみ考えればよいのではない。
それは本当の反省ではない、と思う。
「今現在の分析」と、「将来を具体的にどうしていくか」というふたつのことを、どれだけ細かく考えて、着実に向上していくか、それが本当の反省であろう。
中間の各教科でのクラス平均と学年平均も出ている。
せきね(仮名)が、古典の教科担当として反省をするならば。
週3時間の授業が6限・6限・2限という授業を展開するにしては悪条件であるこのクラスで、学年平均点よりも上になることができた。
以前は古典のまとめプリントを作っても自分の担当するクラスにだけしか配らなかった時があったが、それではよろしくないだろうということで、今回は学年すべてにせきね(仮名)が作ったプリントをいちおう渡している。
こういったような「このクラスだけ有利になる点」をほとんど無くした条件下での結果である。「よくやっている」と言えるのではないか。
反省の第一としては、ひたすら「生徒集団としてのウチのクラスが優良であった」とまとめることができる。
個々に見れば、どのクラスにも古典が不得意な生徒、あまりおもしろさを感じない生徒は同じぐらいの割合で居るものだと考える。
また午後の授業は、どうがんばっても落ち着かない雰囲気になったり、疲労が出たりする。
それでも生徒それぞれがそれぞれに努力をしていたことが、この成果にも表れているのだろう。
反省の第二としては、授業中の音読を相当多めにしたことが良かったのではないか。
「脳科学」でも、「ぼけ防止」でも、「福沢諭吉たち明治期の偉人たちの勉強法」でも、「ドラゴン桜」でも、(それぞれがどれだけの理論体系になっているかは別として)等しく「音読」という方法で国語の基礎力を獲得している。
実際に外部の試験においても「どのように読みますか」「書き下し文にしなさい(これは、読むとおりに書きなさい、にほぼ等しい)」という設問は頻出である。
どんな教科であっても、すらすら読むことができて初めて設問の内容を理解できるものであろう。(……その割には授業の中で音読する科目が少ない気がするのだが)
反省の第三としては、「それでもやはり古典で成績の悪くなってしまった者がいる」という厳しい事実である。
まず、授業の進度。速すぎて誰もついていけないのは問題外であるが、何が何でも待ち続けるというのでは、先に授業の内容を理解し終わった者が空白の時間を過ごすことになる。
授業で押さえるべき学習事項。教科書や参考書をそのまままる写しにするだけならば、教員は不要である。教科書の「不足は補い」「難解な表現は簡潔に改める」べきであろう。しかしながら市民講座やトリビアではないのだから、「分かり易くすると同時に、試験での小難しい設問でも正解できる」ことを目標にせねばならぬ。
そして、授業中に生徒が何をしているか「どれだけ見えているか」である。全国でトップクラスの技量を持つ先生は、「授業で発言したいけれども迷っている小学1年生は、利き手の小指がかすかに手を挙げようかどうかと動くのだ」と言っている。教員はそこまで見えるのだ、というのである。
せきねの、反省を重ねてたどり着こうというその先は、遙かに、遙かに遠い。
「試験の反省」でここまで書け、とは言わない。
けれども自分を見つめることは、せきねよりも、若い君たちの方がはるかに重要だと思う。
外部模試の結果が学校に届いた。個票は各自へ返却された。解説は講座での予定だ。
今回の模試は、全国の中高一貫校から約6500名が受けたテストであった。その学校によって受験した人数は全然違うのだが、我が校中学3年からすると、その何倍もの中高一貫の生徒がこの試験を受けている。
そもそも中高一貫校というのは、基本的にかなりレベルが高い(はず)である。国語・数学で学年平均が全国に離されずにいることができたのが、国語担当としては少しほっとしている。
一方で、英語では相当な苦戦を強いられているのがつらいところである。きっちりやっていかなくてはならぬ。大学の受験を考える時には、この6500名とも競うことにもなるのだから。
もちろん各教科でもこの結果を反省して、授業の取り組みを向上させるつもりである。
あんまりのんびりしていると「やりなさい」光線が飛んでいくけれども、避けたりしないようにしよう。きっちり受け止めていこう。
ただ気になるのは、わがクラスは学年の中でひとつとして学年平均を超えている教科がなかったということである。
中間試験は良かったのに、と思ってしばらく考えていて、ある可能性に思い至った。
模擬試験の範囲など、実際のところ"有って無いようなもの"である。だからこそ、毎日の勉強が大切になる。
宿題を「やっつけ仕事」ではなく、考えてじっくりやっていくべきだ。
授業で学んだことを「あとでいいや」ではなく、授業中に憶えてしまおうというくらいの真剣さが大切なのだ。
もちろん、試験前に勉強をやるのはとても良いことだ。成績にも直接関わる。
けれども。
その向こうにある、大学入試のような「試験範囲の無い試験」にも目を向けてほしい。
今年度はあと1回、外部模試が実施される。
その試験は、中高一貫校にかかわらず、今回よりもたくさんの生徒が受けるらしい。
言い換えれば。
今まではたとえ校内で最上位でも、このような模試で最下位でも、「中高一貫」という枠の中なのである。
けれどもこの次回の模試の結果によって、中学3年生たちの中で自分がどのくらいの位置にいるかを推し量ることができるだろう。
うちの学校で「あの子はすごいな」と言われるような生徒たちが、どの高校の受験生と同じくらいの結果を出すのか。
また、やや不本意な成績になってしまっている生徒たちが、公立中学校のやんちゃ君・やんちゃさんたちに対してどれだけ勉強をがんばれているのか。
これは結果を見るのがこわいようであり、楽しみなようでもある。
個別の結果についてはよく反省をして、それをていねいに書いて提出してほしい。
「反省する」とはまことによく聞く言葉だが、それは一体どういうことか。
ただ気分を落ち込ませて「次はがんばる」とのみ考えればよいのではない。
それは本当の反省ではない、と思う。
「今現在の分析」と、「将来を具体的にどうしていくか」というふたつのことを、どれだけ細かく考えて、着実に向上していくか、それが本当の反省であろう。
中間の各教科でのクラス平均と学年平均も出ている。
せきね(仮名)が、古典の教科担当として反省をするならば。
週3時間の授業が6限・6限・2限という授業を展開するにしては悪条件であるこのクラスで、学年平均点よりも上になることができた。
以前は古典のまとめプリントを作っても自分の担当するクラスにだけしか配らなかった時があったが、それではよろしくないだろうということで、今回は学年すべてにせきね(仮名)が作ったプリントをいちおう渡している。
こういったような「このクラスだけ有利になる点」をほとんど無くした条件下での結果である。「よくやっている」と言えるのではないか。
反省の第一としては、ひたすら「生徒集団としてのウチのクラスが優良であった」とまとめることができる。
個々に見れば、どのクラスにも古典が不得意な生徒、あまりおもしろさを感じない生徒は同じぐらいの割合で居るものだと考える。
また午後の授業は、どうがんばっても落ち着かない雰囲気になったり、疲労が出たりする。
それでも生徒それぞれがそれぞれに努力をしていたことが、この成果にも表れているのだろう。
反省の第二としては、授業中の音読を相当多めにしたことが良かったのではないか。
「脳科学」でも、「ぼけ防止」でも、「福沢諭吉たち明治期の偉人たちの勉強法」でも、「ドラゴン桜」でも、(それぞれがどれだけの理論体系になっているかは別として)等しく「音読」という方法で国語の基礎力を獲得している。
実際に外部の試験においても「どのように読みますか」「書き下し文にしなさい(これは、読むとおりに書きなさい、にほぼ等しい)」という設問は頻出である。
どんな教科であっても、すらすら読むことができて初めて設問の内容を理解できるものであろう。(……その割には授業の中で音読する科目が少ない気がするのだが)
反省の第三としては、「それでもやはり古典で成績の悪くなってしまった者がいる」という厳しい事実である。
まず、授業の進度。速すぎて誰もついていけないのは問題外であるが、何が何でも待ち続けるというのでは、先に授業の内容を理解し終わった者が空白の時間を過ごすことになる。
授業で押さえるべき学習事項。教科書や参考書をそのまままる写しにするだけならば、教員は不要である。教科書の「不足は補い」「難解な表現は簡潔に改める」べきであろう。しかしながら市民講座やトリビアではないのだから、「分かり易くすると同時に、試験での小難しい設問でも正解できる」ことを目標にせねばならぬ。
そして、授業中に生徒が何をしているか「どれだけ見えているか」である。全国でトップクラスの技量を持つ先生は、「授業で発言したいけれども迷っている小学1年生は、利き手の小指がかすかに手を挙げようかどうかと動くのだ」と言っている。教員はそこまで見えるのだ、というのである。
せきねの、反省を重ねてたどり着こうというその先は、遙かに、遙かに遠い。
「試験の反省」でここまで書け、とは言わない。
けれども自分を見つめることは、せきねよりも、若い君たちの方がはるかに重要だと思う。
外部模試の結果が学校に届いた。個票は各自へ返却された。解説は講座での予定だ。
今回の模試は、全国の中高一貫校から約6500名が受けたテストであった。その学校によって受験した人数は全然違うのだが、我が校中学3年からすると、その何倍もの中高一貫の生徒がこの試験を受けている。
そもそも中高一貫校というのは、基本的にかなりレベルが高い(はず)である。国語・数学で学年平均が全国に離されずにいることができたのが、国語担当としては少しほっとしている。
一方で、英語では相当な苦戦を強いられているのがつらいところである。きっちりやっていかなくてはならぬ。大学の受験を考える時には、この6500名とも競うことにもなるのだから。
もちろん各教科でもこの結果を反省して、授業の取り組みを向上させるつもりである。
あんまりのんびりしていると「やりなさい」光線が飛んでいくけれども、避けたりしないようにしよう。きっちり受け止めていこう。
ただ気になるのは、わがクラスは学年の中でひとつとして学年平均を超えている教科がなかったということである。
中間試験は良かったのに、と思ってしばらく考えていて、ある可能性に思い至った。
常日頃からの勉強をしよう。
すぐにあきらめないで、ねばり強く、できる限りのことをしていこう。
模擬試験の範囲など、実際のところ"有って無いようなもの"である。だからこそ、毎日の勉強が大切になる。
宿題を「やっつけ仕事」ではなく、考えてじっくりやっていくべきだ。
授業で学んだことを「あとでいいや」ではなく、授業中に憶えてしまおうというくらいの真剣さが大切なのだ。
もちろん、試験前に勉強をやるのはとても良いことだ。成績にも直接関わる。
けれども。
その向こうにある、大学入試のような「試験範囲の無い試験」にも目を向けてほしい。
今年度はあと1回、外部模試が実施される。
その試験は、中高一貫校にかかわらず、今回よりもたくさんの生徒が受けるらしい。
言い換えれば。
今まではたとえ校内で最上位でも、このような模試で最下位でも、「中高一貫」という枠の中なのである。
けれどもこの次回の模試の結果によって、中学3年生たちの中で自分がどのくらいの位置にいるかを推し量ることができるだろう。
うちの学校で「あの子はすごいな」と言われるような生徒たちが、どの高校の受験生と同じくらいの結果を出すのか。
また、やや不本意な成績になってしまっている生徒たちが、公立中学校のやんちゃ君・やんちゃさんたちに対してどれだけ勉強をがんばれているのか。
これは結果を見るのがこわいようであり、楽しみなようでもある。
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