シンライ、エコヒーキ。
2005年11月8日 お仕事 「残念ながら」か、「幸運なことに」か。
血縁の有る無しではなくて、単なる巡り合わせによってせきね(仮名)は教員であり、子供たちは中高生として学校に来る。
これを必要以上に美化すると、何かが見えなくなるのだろうな、と思う。
たとえば、「信頼」という言葉が学校というシステムの中で使われると、実に気持ちの悪いことがある。
「教師は生徒を信頼すべきだ」という、せきね(仮名)にとっては理解の及ばない言説が幅を利かせる時があるのだ。
かつて「センセは生徒を信頼しないんですかー」って、どこまで冗談で言っているのか判らない言葉をかけられたことがあった。存外、本気で言われたのかもしれない。
で。
こう言ったらさぞ冷淡に聞こえるだろうな、と思いながらも、せきね(仮名)は「いや、別に」と返事をしてしまう。
最初から信頼しないこともないし、無条件に信頼することもない。
「信頼」なんていうものは、日々の振る舞いから徐々に出てくるものだろうと思うから。
世界各国の中でもこんなに治安の良い日本でさえ、「相手先が不明の電話には安易な返事をしない」「知らない人には付いていかない」ということを心がけなくては、命に危険の及ぶ場合さえある。相手をよく確認しないで騙されても、それは本人が馬鹿である証明にしかならぬ。自分の身は自分で守ることを、消費者センターでも警察でも勧めている。
なのに。
学校だけは「信頼が第一」だと説く。しかしせきね(仮名)には、それが正しいことだという確信が持てない。
親が何も顧みず「信頼が第一」だと子供に無償の愛を注ぎ、ときどき子供に殺される。
客観的な事実として、教員の熱意はどんなことをしても親の愛情には及ばない。
「提出物を期限に出す」生徒に対しては、ごくたまに忘れ物をしても構わないと思う。けれど、「何日経っても提出物が出ない」生徒が忘れ物をしても、また忘れた、と思う。
「熱心に打ち込むものがある」生徒に対しては、その打ち込むものを優先させて、課題をやる順番を後回しにしてもいいかな、と思う。けれど「打ち込むものがなくてだらだらと日々を過ごす」生徒が課題を後でやりますといっても、アホか、やれ、と言う。
「掃除をきちんとやる」生徒に対しては、学校外でも誠実に過ごしているのだろうと思う。だが、「隙を見て掃除をサボる」生徒が見ていないところで小悪事をはたらいていたとしてもそれはあり得るだろうな、と思う。
もし「いじめや嫌がらせを楽しむ」生徒がいたら、誰が何を言おうと絶対に信頼なんかできない。卑劣を知り、それでもなお暗い喜びに浸るその性根を許さない。万人が明らかだと認める証拠が有ろうと無かろうと、そんなものは関係ない。
上のは基本編だが、せきね(仮名)には応用編もある。応用編は多分に冗談めいているが。
担任している生徒とそうでない生徒がいたら、担任している生徒の方が正しい。
せきね(仮名)がお茶を飲みたい時に近くにいると、せきね(仮名)のぶんとその場にいる生徒のぶんの飲み物を買いに行かされる時がある。
意見にせよ不満にせよ、陰で言うよりも正面切って言う方を信用する。
いずれにせよ、清らかな大義名分は公立教育にお任せして、少々毒があっても現実を重んじる教育に関わりたいとは思っている。
血縁の有る無しではなくて、単なる巡り合わせによってせきね(仮名)は教員であり、子供たちは中高生として学校に来る。
これを必要以上に美化すると、何かが見えなくなるのだろうな、と思う。
たとえば、「信頼」という言葉が学校というシステムの中で使われると、実に気持ちの悪いことがある。
「教師は生徒を信頼すべきだ」という、せきね(仮名)にとっては理解の及ばない言説が幅を利かせる時があるのだ。
かつて「センセは生徒を信頼しないんですかー」って、どこまで冗談で言っているのか判らない言葉をかけられたことがあった。存外、本気で言われたのかもしれない。
で。
こう言ったらさぞ冷淡に聞こえるだろうな、と思いながらも、せきね(仮名)は「いや、別に」と返事をしてしまう。
最初から信頼しないこともないし、無条件に信頼することもない。
「信頼」なんていうものは、日々の振る舞いから徐々に出てくるものだろうと思うから。
世界各国の中でもこんなに治安の良い日本でさえ、「相手先が不明の電話には安易な返事をしない」「知らない人には付いていかない」ということを心がけなくては、命に危険の及ぶ場合さえある。相手をよく確認しないで騙されても、それは本人が馬鹿である証明にしかならぬ。自分の身は自分で守ることを、消費者センターでも警察でも勧めている。
なのに。
学校だけは「信頼が第一」だと説く。しかしせきね(仮名)には、それが正しいことだという確信が持てない。
親が何も顧みず「信頼が第一」だと子供に無償の愛を注ぎ、ときどき子供に殺される。
客観的な事実として、教員の熱意はどんなことをしても親の愛情には及ばない。
「提出物を期限に出す」生徒に対しては、ごくたまに忘れ物をしても構わないと思う。けれど、「何日経っても提出物が出ない」生徒が忘れ物をしても、また忘れた、と思う。
「熱心に打ち込むものがある」生徒に対しては、その打ち込むものを優先させて、課題をやる順番を後回しにしてもいいかな、と思う。けれど「打ち込むものがなくてだらだらと日々を過ごす」生徒が課題を後でやりますといっても、アホか、やれ、と言う。
「掃除をきちんとやる」生徒に対しては、学校外でも誠実に過ごしているのだろうと思う。だが、「隙を見て掃除をサボる」生徒が見ていないところで小悪事をはたらいていたとしてもそれはあり得るだろうな、と思う。
もし「いじめや嫌がらせを楽しむ」生徒がいたら、誰が何を言おうと絶対に信頼なんかできない。卑劣を知り、それでもなお暗い喜びに浸るその性根を許さない。万人が明らかだと認める証拠が有ろうと無かろうと、そんなものは関係ない。
上のは基本編だが、せきね(仮名)には応用編もある。応用編は多分に冗談めいているが。
担任している生徒とそうでない生徒がいたら、担任している生徒の方が正しい。
せきね(仮名)がお茶を飲みたい時に近くにいると、せきね(仮名)のぶんとその場にいる生徒のぶんの飲み物を買いに行かされる時がある。
意見にせよ不満にせよ、陰で言うよりも正面切って言う方を信用する。
いずれにせよ、清らかな大義名分は公立教育にお任せして、少々毒があっても現実を重んじる教育に関わりたいとは思っている。
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