新入生が来る期間なのだが、そんな様子もなく今日の部活も過ぎる。このままでは新入部員ゼロである。「まあしょうがないか」と思いつつ、部員たちがわいわいと話をしているのを、聞くでもなく聞かぬでもなく。
学校生活から何から様々なことに話題は広がっていき、そのうちに担任談義になったらしい。
かっちゃんが、熱心に言うのだった。
「ウチのセンセ、サイコーだから!」
「言うとおりに数学やったら、ぐんぐんできるようになるから!」
「みんな『コワイ』『コワイ』って、スッゴイ誤解だから!!」
そんなに多弁なほうではないかっちゃんが、大好きなオモチャのことを語っている子供のように見えるぐらいである。
向山洋一氏が述べていることを思いだした。
「勉強する喜び」を知る児童は、表情が明るく、目が輝いていて、年齢より幼く見える。逆に、勉強に対して嫌悪感を持ち、学ぶ喜びを知らない児童は、目がつり上がり、すさんだ大人のような表情になる。
かのアインシュタインがいつまでも子供らしさを失わない面があったということと、もしかしたら繋がっているのかもしれない。
「ウチのセンセは当たり前のことしか言ってないから!」「ホントみんな誤解しているから!」と目を輝かせて、尽きず話し続けるかっちゃんの言葉に対して。
ショウ君は「大丈夫、わかっているよ」と言うかのように、おだやかに聞き続けている。
よーへい君は、「そーなんだけど、できれば担任じゃなくて数学教えてもらえるだけだと気楽なんだけどナ〜」なんてちょこっと笑いながら言う。
暇なのか、たまたまやって来ていたニーナ君は「えー、そうかなー?」と彼らしい口調で言ったが、間髪入れずかっちゃんとよーへい君にツッコミを入れられる。
「ニーナ、おまえ去年お世話になってなかったら、今頃どーなっていたか判らないぞ!」
「誰のおかげで真人間に近付いたと思っているんだ!」
けっこうひどい言われようだなあ、と苦笑していたら、当のニーナ君が「んー、たしかに育ててもらってたのかもー」と言う。なかなか度量があるのやら、のんびりした性格なのやら。
すぐれた教員に出会うのは、とても幸せなことだ。
楽しい学校生活の思い出とともに、あとにまで残る力をも得ることができるから。
しかし、教員の頭上に能力の数値が浮いているわけではない。
「すぐれた教員」を見抜くには、眼力が必要となる。
人材を、人材と見抜くように。
良い野菜を、良い野菜と見分けるように。
眼力がなければ、教員の指示をおざなりにし、ほとんど何も得ずに時間が過ぎていく。
そうして、「この人についていこう」「この人の全てを学ぼう」と思った時に、ただの教え手と学び手の人間関係が変化する。
「師匠」と「弟子」となる。
「我が恩師は、斯くの如くに言った」と生涯に及ぶ指針を抱き、誇り高く生きることができるようになる。
どんな困難にぶつかっても、師匠の温雅な声や烈々たる叫びを耳朶に聞きながら、生きていくことができるようになる。
「ホントに! ホントに!! 今まででサイコーだから!!」
その一生懸命ぶりに、くすりと笑ったせきねと、かっちゃんの目が合う。
「あ、せきねセンセがダメってわけじゃないから。そうしたらこんなこと言わないですから!」
かっちゃん、やさしいなあ。
でも。
せきねはいつもこう思っているんだ。
たとえどんなに疎まれようと、憎まれようと。
それがどんなに哀しい思いにさせられるとしても。
せきねは、その生徒が立派になってくれれば、それでいいんだ。
それだけで、いいんだ。
学校生活から何から様々なことに話題は広がっていき、そのうちに担任談義になったらしい。
かっちゃんが、熱心に言うのだった。
「ウチのセンセ、サイコーだから!」
「言うとおりに数学やったら、ぐんぐんできるようになるから!」
「みんな『コワイ』『コワイ』って、スッゴイ誤解だから!!」
そんなに多弁なほうではないかっちゃんが、大好きなオモチャのことを語っている子供のように見えるぐらいである。
向山洋一氏が述べていることを思いだした。
「勉強する喜び」を知る児童は、表情が明るく、目が輝いていて、年齢より幼く見える。逆に、勉強に対して嫌悪感を持ち、学ぶ喜びを知らない児童は、目がつり上がり、すさんだ大人のような表情になる。
かのアインシュタインがいつまでも子供らしさを失わない面があったということと、もしかしたら繋がっているのかもしれない。
「ウチのセンセは当たり前のことしか言ってないから!」「ホントみんな誤解しているから!」と目を輝かせて、尽きず話し続けるかっちゃんの言葉に対して。
ショウ君は「大丈夫、わかっているよ」と言うかのように、おだやかに聞き続けている。
よーへい君は、「そーなんだけど、できれば担任じゃなくて数学教えてもらえるだけだと気楽なんだけどナ〜」なんてちょこっと笑いながら言う。
暇なのか、たまたまやって来ていたニーナ君は「えー、そうかなー?」と彼らしい口調で言ったが、間髪入れずかっちゃんとよーへい君にツッコミを入れられる。
「ニーナ、おまえ去年お世話になってなかったら、今頃どーなっていたか判らないぞ!」
「誰のおかげで真人間に近付いたと思っているんだ!」
けっこうひどい言われようだなあ、と苦笑していたら、当のニーナ君が「んー、たしかに育ててもらってたのかもー」と言う。なかなか度量があるのやら、のんびりした性格なのやら。
すぐれた教員に出会うのは、とても幸せなことだ。
楽しい学校生活の思い出とともに、あとにまで残る力をも得ることができるから。
しかし、教員の頭上に能力の数値が浮いているわけではない。
「すぐれた教員」を見抜くには、眼力が必要となる。
人材を、人材と見抜くように。
良い野菜を、良い野菜と見分けるように。
眼力がなければ、教員の指示をおざなりにし、ほとんど何も得ずに時間が過ぎていく。
そうして、「この人についていこう」「この人の全てを学ぼう」と思った時に、ただの教え手と学び手の人間関係が変化する。
「師匠」と「弟子」となる。
「我が恩師は、斯くの如くに言った」と生涯に及ぶ指針を抱き、誇り高く生きることができるようになる。
どんな困難にぶつかっても、師匠の温雅な声や烈々たる叫びを耳朶に聞きながら、生きていくことができるようになる。
「ホントに! ホントに!! 今まででサイコーだから!!」
その一生懸命ぶりに、くすりと笑ったせきねと、かっちゃんの目が合う。
「あ、せきねセンセがダメってわけじゃないから。そうしたらこんなこと言わないですから!」
かっちゃん、やさしいなあ。
でも。
せきねはいつもこう思っているんだ。
たとえどんなに疎まれようと、憎まれようと。
それがどんなに哀しい思いにさせられるとしても。
せきねは、その生徒が立派になってくれれば、それでいいんだ。
それだけで、いいんだ。
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