所詮。
言葉で何を言おうとも。
いかに行動したかで自身の正しさは明らかになる。
これは、大人だろうが子供だろうが変わりはない。
若いから純粋で、という考え方は、少なくとも美化に過ぎる。
小学生だろうが中学生だろうが高校生だろうが、下劣なやつは下劣だ。
もちろん、年若ければ目算の誤りは多くなる。
だから生徒に対しては、「言っただけのことをどれだけやれるか」ではなく、「言っただけのことをどれだけやろうとしているか」を見るようにしている。
ポイントは簡単である。
たとえば今回のクラス合唱の場合ならば。
練習の時間に何人集まっているか、である。
「歌おう」と声をかけられたとき、その指示をすばやく聞き入れることができるか、である。
苦労を避け、小狡く立ち回る集団の曲には、感動がない。
放課後・職員会議。
あちこちから合唱の練習が聞こえてくる。
その中で、耳が無視できないメロディーがあった。会議で発言する教員の声よりも、歌声が耳に入って来るのである。
会議が一時休憩になって、窓から見ればタカハシ組の子たちであった。
他の先生たちも同じ思いを抱いたのかもしれない。次々と窓の外にいる子たちの姿を眺めていた。
タカハシ組の全員が居たわけではなかった。3分の2、ひょっとしたら半分程度かもしれない。
けれど自分たちで考え、集まって歌っているその合唱は、他の練習よりも教員集団の心を動かした。
物理的な(?)声量の差はあるだろう。20人より30人、40人と数が多ければ多いほど、測定したり録音したりした時の声量は多いに違いない。
けれど感動し、「いいなぁ」と思うかどうかは別だ。
人の耳は、音を選別するのである。
カラスが集まれば、烏合の衆と呼ぶ。鳴き声はただの騒音である。
きっと、どんなにたくさん集まっても、気持ちのこもらない合唱は濁るのだろう。
生徒集団の質を見たい時は、合唱を聞けばいいのかもしれない。
言葉で何を言おうとも。
いかに行動したかで自身の正しさは明らかになる。
これは、大人だろうが子供だろうが変わりはない。
若いから純粋で、という考え方は、少なくとも美化に過ぎる。
小学生だろうが中学生だろうが高校生だろうが、下劣なやつは下劣だ。
もちろん、年若ければ目算の誤りは多くなる。
だから生徒に対しては、「言っただけのことをどれだけやれるか」ではなく、「言っただけのことをどれだけやろうとしているか」を見るようにしている。
ポイントは簡単である。
たとえば今回のクラス合唱の場合ならば。
練習の時間に何人集まっているか、である。
「歌おう」と声をかけられたとき、その指示をすばやく聞き入れることができるか、である。
苦労を避け、小狡く立ち回る集団の曲には、感動がない。
放課後・職員会議。
あちこちから合唱の練習が聞こえてくる。
その中で、耳が無視できないメロディーがあった。会議で発言する教員の声よりも、歌声が耳に入って来るのである。
会議が一時休憩になって、窓から見ればタカハシ組の子たちであった。
他の先生たちも同じ思いを抱いたのかもしれない。次々と窓の外にいる子たちの姿を眺めていた。
タカハシ組の全員が居たわけではなかった。3分の2、ひょっとしたら半分程度かもしれない。
けれど自分たちで考え、集まって歌っているその合唱は、他の練習よりも教員集団の心を動かした。
物理的な(?)声量の差はあるだろう。20人より30人、40人と数が多ければ多いほど、測定したり録音したりした時の声量は多いに違いない。
けれど感動し、「いいなぁ」と思うかどうかは別だ。
人の耳は、音を選別するのである。
カラスが集まれば、烏合の衆と呼ぶ。鳴き声はただの騒音である。
きっと、どんなにたくさん集まっても、気持ちのこもらない合唱は濁るのだろう。
生徒集団の質を見たい時は、合唱を聞けばいいのかもしれない。
コメント