ベルリンの壁
 
 
 第2次世界大戦(〜1945)では、ドイツ、日本、イタリアの同盟と、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦(今のロシア)などの連合国が戦った。その結果、ドイツは負けて4つに分割される。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連がドイツのそれぞれの地域を占領し、首都のベルリンも同様に4か国の間で分割占領された。
 
 アメリカ、イギリス、フランスは資本主義で国が成り立っていたので、占領していたドイツ、ベルリンでも、この方法を利用した。一方ソ連は、社会主義の国である。これは、国が計画を立てて、会社や工場の経営を指導するというやり方である。もちろん、ソ連はベルリンでもこの社会主義を取り入れて治めようとした。
 4か国は当初、平和なドイツを作ろうとしたが、資本主義と社会主義の方法の違いは次第にはっきりと現れてくる。(ここが、大戦後の日本とは大きく異なる点である)それにより、アメリカ、イギリス、フランスの3か国とソ連は険悪になる。
 
 仲が悪くなってくると、アメリカ、イギリス、フランスの3か国が占領していた地域と、ソ連が占領していた地域が、別々の発展をするようになった。3か国はベルリンの西側、それに対してソ連はベルリンの東側を占領していた。西ベルリンは資本主義、東ベルリンは社会主義に分かれるようになった。
 ベルリンと同じように、ドイツ自体もアメリカ、イギリス、フランスの3か国が占領する地域と、ソ連が占領する地域とに分かれた。西ドイツはドイツ連邦共和国として、東ドイツはドイツ民主共和国として、1949年に独立する。
 ベルリンという都市は東ドイツの真中にあったが、西と東に分かれたのである。資本主義側の西ベルリンは、対立する社会主義側に周囲を囲まれていたことになる。
 
 社会主義の方法が応用された東ベルリンや東ドイツでは、人々は自由ではなかった。工場や会社の経営は常に指示されていたからである。伝えられる計画は、実際に人々が働いている現場のことに配慮しないものもあったという。当然、働く人たちからは不満の声があがる。しかし、そうした不満をはっきり言うことは許されなかった。そこで、自由な西ベルリンや西ドイツに亡命する人がたくさん出た。その数は1年間に平均で20万人ほどであったという。
 
 多くの人が西ベルリンや西ドイツに行けば、働き手がいなくなり、東ドイツや東ベルリンは成り立たなくなる。社会主義の方法である、会社や工場の経営を国が計画することもできなくなる。そこで、亡命を止める方法はないかと考えられるようになった。
 労働者が西ベルリンに逃げ込むことができないように、東ドイツは壁を作ることを決定する。1961年8月13日の午前零時、東ドイツは壁作りを開始。
 まずは工事現場などで使う有刺鉄線を張り巡らせることで、人々の行き来を止めた。そしてそれを越えようとする人を止めるため、東ドイツはあちこちに銃を持った兵隊を立てて見張らせる。さらに有刺鉄線だけで完全ではないので、その後、コンクリートのブロックを積んだりして壁を作っていった。
 こうしてできたのがベルリンの壁である。東ドイツと西ドイツの境界線にも、同じように壁や金網などが築かれた。
 
 コンクリートの壁を作り、兵士の見張りもあったが、これだけでは乗り越えられることもある。そこで東ドイツは、もっと完璧な壁にしようといろいろな仕組みを作った。壁は1枚だけでなく、5mから数10m後ろにもう1枚作る。その壁と壁の間は普通の市民は立ち入り禁止にして、兵士が見張る。立ち入り禁止の場所は無人地帯と言い、監視塔と呼ばれる見張りのための塔をたくさん作ったり、人の気配をすばやく知るように軍用犬を配置したりもした。無人地帯の中にさらに金網を作り、電気仕掛けで誰かが乗り越えようとすると近くの監視塔に知らせる装置も開発された。
 
 ベルリンの壁が、単なる工場などの塀と異なって「ベルリンの壁」であった最大の理由は、射殺命令が布かれていたことである。ベルリンの壁を越えて西側に逃亡しようとする者は撃ち殺される、ということだ。
 東ドイツの国境警備隊で兵士達が聞かされていたのは、「国境を侵す者は祖国に対する裏切り者である。ドイツ民主共和国政府は、合法的に出国できる措置を講じているのに、それを利用しないのは犯罪であり国家に対する敵対行為である」という内容であった。亡命をしようとする者は、東独の経済や軍事に関する秘密を暴露するよう西側に強要されているのだ、ということまで国境警備隊では教えられていたという。西側に亡命した警備兵によると、ほとんどの兵士はこうした話を信用はしていなかったが、公然と反論することはできなかったそうである。
 
 東ドイツは「社会主義統一党」という名前の政党により支配された独裁国家だった。国民には政治的自由や言論の自由がなく、特に「国家保安省」と呼ばれた秘密警察による監視が厳しかったのである。一般市民の中に国家保安省に情報を提供する協力者がたくさんいて、例えば「近所の○○さんが政府を批判していた」というような密告が行われていた。
 しかも、この協力者であることは秘密にされたので、家族の中にも知らないうちに協力者がいることもあったようである。だから夫婦や親子の間でさえ、政府を批判するなどの会話は難しかった。家族といえど腹を割って話し合うこともできない状況である。国民は常に行動を見張られている、といっても過言ではなかった。
 
 このような体制の中で、1980年代を通じて、東ドイツでは国民の間に政治に対する不満が高まっていった。また、西ドイツやアメリカ、日本など西側の国に比べ商品の種類が少なかったり、質が劣っていることも事実だった。例えば車では、東ドイツで一般の人が買える車は2種類くらいしかなかったので、街中を同じ車が走っているようなこともあったのである。
 
 1989年10月ごろから、東ドイツ国内では自由化を求めるデモが多発するようになった。11月に入ると、政府も統制できないほどの規模になった。そして、11月9日の夕方、とうとう東ドイツは市民の自由な出国を認め、ベルリンの壁、東西ドイツ国境を開放すると発表した。しかも、この措置は即刻実施されると発表されたので、東ドイツの市民は夜にかけて続々とベルリンの壁にあった検問所に詰め掛けた。このニュースは即座に世界中に流されたので西ベルリン側からも人々が押し寄せ、検問所周辺はお祭り騒ぎのようになった。この一晩で数万人が西ベルリンに入ったと言われる。こうした経緯で"壁"は崩壊したのだった。
 壁の一部は、日付が変わった11月10日未明、興奮した東西両ベルリン市民によって破壊され、のちに東ドイツによってほぼすべてが撤去された。(ただし、歴史的な意味のある建造物のため、一部は破壊されずに残っている)
 
 ベルリンの壁の崩壊により東西ドイツの国境は事実上なくなり、ドイツの統一は加速されたのである。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索