わたしは自分の職業を、教員と呼ぶ。
 日々の生活で先生と言うことはあるが、教師とは呼ばない。
 
 師であるかどうかは、教える側が決めることではないからだ。
 
 「与える側」がどんなに全力で教壇に立とうとも、「受け取る側」は全力で受け取ることもあれば、全力で受け取らないこともある。
 
 師であるかどうかは、教わる側が決める。
 
 「教える」ということが技術である以上、明確に差というものがある。心ある教員たちは、自身がより良い技術を持とうとして努力を重ねる。
 
 それでは、良い教員さえいれば学校という組織に潜むすべての問題は解決するのか。
 わたしはきわめて懐疑的である。
 
 どんなに荒れている教室でも授業を落ち着いて受けようとする者はいるし、どんなに優れた教室でも最低限の宿題をやらない者はいる。
 
 生徒が学習をしても、学習をしなくても、基本的には教員の報酬は変化しない。
 生徒が何をしようが、何をしなかろうが、基本的には教員の生活に利害はない。
 しかし折に触れて指導するのは、それが本人のために必要であると感じているからだ。
 「与える側」が仮に全力で教壇に立っていたとする。
 「受け取る側」は、全力で受け取ることもある。
 「受け取る側」は、全力ではねのけることもある。
 受け取れば、それは「教師」と呼んでもいいだろう。
 ただ、わたしが観察するに、どの日本人も教えられたその時の都合に合わせて受け取る者がほぼ全員であるようだ。(日本以外はわからないが)
 日本では、「教師」は絶滅に瀕している。
 
 
 やるヤツはやるし、やらないヤツはやらない。
 
 自分がやっていることにどれだけの意味があるのか、雨降る夜に答えは見えない。

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