学級通信で45号にあたるものを書き、2日目の朝に配布。
 
 
天と自分は見ている

 文化祭、せきね組の教室にこんなにたくさんの来場者があるとは思わなかった。
 せきねがそう考えた理由はふたつ。

 3階であること。
 高等部でも"駄菓子屋"や"縁日"というタイトルで似たようなことをやっていたこと。

 けれども実際に開場してみれば、それらの不利なんかまるで感じない盛況ぶりである。
 まさしく、"うれしい悲鳴"とはこういうことなのだろう、と思った。
 あまりにも人が多く、「ヨーヨー釣り」や「スーパーボールすくい」では残りの個数を数えて"準備中"としなくてはならないくらいであった。「射的」では景品の数が不安になったので、急遽景品になりそうなものを集めるようにしたくらいであった。

 教室の外側の様子は、美術のモトムラ先生、音楽のマツイ先生が絶賛してくださった。
 芸術に関わる先生おふたりがほめてくださったのだから、これほど素晴らしいことはない。

 中の様子や雰囲気については、英会話のコリー先生やジョナサン先生、そのご友人たちがとても感心していらっしゃった。日本の祭りはあまり経験したことはないようで、それぞれのゲームにけっこう熱中して楽しんでいらっしゃったようである。

 せきねはときたま教室に顔を出す程度であった。
 それでもさまざまな様子が見えた。

 ヨーヨー釣りで、綿密に考えてプールに浮かべる数を決めていた姿。
 スーパーボールすくいで、すくうためのモナカ皮が足りなくなって、工夫を凝らして割り箸と半紙とのりとで、すくうための道具を作っていた姿。
 射的で、なかなか声を掛けられないでいる子を見つけて、エアガンを渡しながら丁寧にルールを説明していた姿。
 はがれかけた飾りに、ガムテープを貼って付け直していた姿。
 散らばるゴミを、さりげなく拾い集めていた姿。

 それらは、せきねが見ているからやっていた、というわけではない。自然とそういう振る舞いができていて、偶然にその尊い姿をせきねが見かけたのである。

 誰が見ていようが、見ていなかろうが。
 
 天と自分自身は、その行いひとつひとつを見ている。
 そして必ず本人が、その行いの結果を受け取る。
 
 文化祭のような行事で、何をしてきたか。何をしてこなかったか。
 これは必ず、人生の最も重要な時に明らかになる。
 たとえ「生活記録」にどんなに勉強したと書いても、たとえ勉強しているふりをしても、それが真実であるかは試験などの機会に証明される。これと同じである。

 最後の最後まで、来た人が喜ぶ文化祭にしていこう。

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