多事/多難。

2003年10月24日 お仕事
 校内での怪我、ケンカ、いさかいなど多し。

 多事多難は必ずしも悪いことではない。それに対しての対応がどう行えているかである。

 「ひと」がふたり以上いれば、そこには人間関係というものが生まれる。

 優劣や強弱や。
 対立にせよ協調にせよ。
 友愛であれ憎悪であれ。

 もし何の関係も生まれないとすれば、それは「ひと」同士だという認識が無いかきわめて希薄かのどちらかであろう。
 たとえば道行く人などのように。

 ずっと公立の小中高に通い続けた自分を振り返ってみると、「私立の生徒=分別がある子ども」というイメージが抜けない。揉め事も自己の力で解決していきそうな感覚をどうしても持ってしまう。

 そんなことはあるはずもなく。

 むしろ、学力と引き替えに多くの物を失っているかのような錯覚さえ感じてしまう時さえある。
 特にこのところはそう思ってしまうようなことが続く。
 大事故などが起きているわけではないが、細かい事件でもひとつひとつ考えてみると、知識と性向とは何ら関連がないという結論を出してしまいたくなってしまう。

 たとえ話。
 やや孤立しがちな生徒がいて、どうもグループづくりがうまくいかない。
 さらに孤立する生徒がいて、その生徒に対して、些細ないやがらせを執拗に行い続ける。
 それを教室のほとんどは知っていて、両方に対してますます距離をおいてしまう。 

   弱い者達が夕暮れ
   さらに弱い者をたたく

   その音が響きわたれば
   ブルースは加速して行く

   見えない自由がほしくて
   見えない銃を撃ちまくる

   本当の声を聞かせておくれよ

 生徒たちが帰ったあとの校舎では、小さな声でもよく響く。
 ずいぶんきらいだった歌だ。

 「弱い者」って、だれ。
 「たたく/音」って、どういう音。
 「ブルース」って、なに。どうして「加速」するの。
 「見えない自由」って、どういう自由。
 「見えない銃」って、なんのこと。
 「本当の声」って、だれがだれに聞かせる、どういう声。

 意味がわからない。

 うたい手は歌えばいい。
 けれどボクは。
 意味を明らかにして事に当たらなければいけないのだろう。

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