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ことばというものは、渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われるしかたで、虚構の文節を与え、そして分類する働きを担っている。言葉とは絶えず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区別された、もの(原文傍点)やこと(原文傍点)の集合であるかのような姿の下に、人間に提示してみせる虚構性を本質的に持っているのである。
第一学習社・国語総合「ものとことば」…鈴木孝夫『ことばと文化』より
ふと思い出して、引用してみた。
【以下、本文とは離れているので注意】
人間が作り出したものは、自分の周りのことをより良くするために使われている(はずである)。
「ことば」も、生きていくために便利だから作り出され、使われてきた。
他のものも、大なり小なり、「ヒト」が「人」としてより良く生きていくために必要だ、と考えて残してきたものだと思う方が良いのではないか。
たぶん、「1年の節目」と言われるものもそうなのだろう。
連続している「世界」は、大晦日と元旦をことさらに区別したりはしない。
飼い犬や飼い猫や、庭にいる雀たちを見ていると、12月31日と1月1日を区別している様子は、無い。
おそらく、「人」だけが、(現代の日本人が現代の日本人らしく)「人」らしくしていくために、この「1年の節目」というものが必要なのだろう。
ごちゃごちゃとして、切れ目なんか無いこの「世界」で。
過去を思い。
未来に願い。
現在のささやかな喜怒哀楽に気付く。
連続した時間に「虚構の文節」を付け、大晦日や正月をまるで眼前に見るように取り出してくる。そして、他の文化を持つ民族と違って(もしくは他の生物と違って)、年末年始をことさらに重んじる。
それが、今までの日本人がこの時期にやってきたことであるのだろう。
年末年始を、年末年始として過ごすことができるのは、きっと幸福なことなのだろうな、と思った次第である。
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