むしろ授業進度が速まる。
2006年7月12日 お仕事 痛いときは痛いが、そうでない時はいたって平穏な体調。
いつ突然激痛が起こるか判らない。そうしたら仕事どころではなくなる。
最悪の時は入院しないといかん。
そうすると元気なうちにやれるだけやる、進めるだけ進めておく、という結論になる。
先取りっ。先取りっ。
無事だったら、また後で復習すればいいから。
かくて、「生徒不在の授業」。
と言っても、全部せきね(仮名)が説明してしまうという意味だが。
実は、そういうやりようはわたしの本意から大きくずれている。
教員は、生徒に「学ばせる」のが仕事であると考えられる。
究極のところ、教員が居眠りしていても生徒が勉強すればいいのである。
個人的な独断と偏見なのだが、世の中にはあまりにも親切な先生が多い。
一生懸命に語り、きれいに板書をまとめ、学習内容をまとめていく。
それはとてもすごいことだ。目指すべきことだ。
しかし。
その教室で生徒が寝ていたり、私語が止まなかったり、学習していなければ、どんな授業行為であっても意味を失う。
そんな授業には。
意味が、無いのだ。
なぜもっと強く「学べ」というひとことを放つことができないのだろう。
廊下から見える授業に、たびたび心の中で思う。
なぜ、「やれ」と言えない?
それは、別に教室で暴れるということではなく。
「授業である限り、徹して学び続ける」という当然のことのために。
まともな授業をしなければ殺すぞ、というぐらいの気迫が生徒には何故無いのか。
まともに勉強しなければ殺すぞ、というぐらいの気迫が教員には何故無いのか。
生徒にしろ教員にしろ、緊張感が足りない。ものすごく。
せきね(仮名)の授業では、面倒くさいことに「やれ」が多い。
それは、あまり国語科らしからぬようであるが。
学ばなければ、勉強しなければ、それは少なくとも授業とは呼べないのではないか、と思うからである。
その「やれ」がなくして「生徒の伸びようとする力を信じましょう」などという耳障りだけ良い言論があると、「わたしは信じませんよ」という暴論を吐いて研修会の雰囲気をぶち壊してしまいたくなる。
「なぜか、いつまでも『伸びようとしない』生徒ばっかりなんですよね、見ていると」なんて苦笑混じりに発言するのである。
まあ、高校生にもなれば理屈も言わずに一方的な「やれ」では通じないこともある。そりゃあ相手もほぼ大人だから。
しかし、完全に大人の、趣味の教室ではないのだから、「やりたくない」では済まないのである。
なので、配布物で告知をし、事前に話しておくなどしてルールと要求は明確にするように心がけている。
そのルールは、さほど奇をてらったものではない。
授業中、寝ていて声をかけてもずっと起きなかったら、その時間に応じて遅刻や欠課と同様の出欠席を付ける。
提出物によって相応の平常点を付ける。
音読テスト、暗唱テスト、漢字テストなど、学習行為への評価を積極的に行う。
小テストができなかったら、できるまで放課後などの空き時間を使ってやる。
宿題を家でやって提出できないのだったら、学校でやって提出する。
1年間赤点の続いた者が年度末最後の試験で逆転することは本来とても奇異なことである。したがって、特別な事情を勘案する必要がない限り、国語の追認試験は行わずそのまま留年と判定する。
そうしてこれらのルールによって、せきね(仮名)の学習への評価は年度初めから進行している。
常々生徒に呼びかける、「いっしょに卒業しよう」という言葉はわたしの心の底からの願いだが、かといってそれは無条件に進級・卒業することを意味しない。鍛えに鍛え、練習を重ねてたどりついた部活動の成果のように、苦楽をともにして分かち合うべきものであると強く思う。
弛緩した何の感慨もない年月の経過は、禽獣の持つ時間感覚であろう。
中高一貫部の3分の2ほどの生徒の学校生活はおおよそ理解している。この年度の最後に、進級させるか否か、賛成票を投じるか反対票を投じるかの決断はつけた。(もちろん今後それが変わることもあり得るが)
進級になんら問題のない生徒もいるが。
……教員の判断として、進級に異議を差し挟まねばならぬ生徒も。
折に触れて、改善すべき点については全て本人に話すのだが。
これが。
なかなか通じないのだな。
いつ突然激痛が起こるか判らない。そうしたら仕事どころではなくなる。
最悪の時は入院しないといかん。
そうすると元気なうちにやれるだけやる、進めるだけ進めておく、という結論になる。
先取りっ。先取りっ。
無事だったら、また後で復習すればいいから。
かくて、「生徒不在の授業」。
と言っても、全部せきね(仮名)が説明してしまうという意味だが。
実は、そういうやりようはわたしの本意から大きくずれている。
教員は、生徒に「学ばせる」のが仕事であると考えられる。
究極のところ、教員が居眠りしていても生徒が勉強すればいいのである。
個人的な独断と偏見なのだが、世の中にはあまりにも親切な先生が多い。
一生懸命に語り、きれいに板書をまとめ、学習内容をまとめていく。
それはとてもすごいことだ。目指すべきことだ。
しかし。
その教室で生徒が寝ていたり、私語が止まなかったり、学習していなければ、どんな授業行為であっても意味を失う。
そんな授業には。
意味が、無いのだ。
なぜもっと強く「学べ」というひとことを放つことができないのだろう。
廊下から見える授業に、たびたび心の中で思う。
なぜ、「やれ」と言えない?
それは、別に教室で暴れるということではなく。
「授業である限り、徹して学び続ける」という当然のことのために。
まともな授業をしなければ殺すぞ、というぐらいの気迫が生徒には何故無いのか。
まともに勉強しなければ殺すぞ、というぐらいの気迫が教員には何故無いのか。
生徒にしろ教員にしろ、緊張感が足りない。ものすごく。
せきね(仮名)の授業では、面倒くさいことに「やれ」が多い。
それは、あまり国語科らしからぬようであるが。
学ばなければ、勉強しなければ、それは少なくとも授業とは呼べないのではないか、と思うからである。
その「やれ」がなくして「生徒の伸びようとする力を信じましょう」などという耳障りだけ良い言論があると、「わたしは信じませんよ」という暴論を吐いて研修会の雰囲気をぶち壊してしまいたくなる。
「なぜか、いつまでも『伸びようとしない』生徒ばっかりなんですよね、見ていると」なんて苦笑混じりに発言するのである。
まあ、高校生にもなれば理屈も言わずに一方的な「やれ」では通じないこともある。そりゃあ相手もほぼ大人だから。
しかし、完全に大人の、趣味の教室ではないのだから、「やりたくない」では済まないのである。
なので、配布物で告知をし、事前に話しておくなどしてルールと要求は明確にするように心がけている。
そのルールは、さほど奇をてらったものではない。
授業中、寝ていて声をかけてもずっと起きなかったら、その時間に応じて遅刻や欠課と同様の出欠席を付ける。
提出物によって相応の平常点を付ける。
音読テスト、暗唱テスト、漢字テストなど、学習行為への評価を積極的に行う。
小テストができなかったら、できるまで放課後などの空き時間を使ってやる。
宿題を家でやって提出できないのだったら、学校でやって提出する。
1年間赤点の続いた者が年度末最後の試験で逆転することは本来とても奇異なことである。したがって、特別な事情を勘案する必要がない限り、国語の追認試験は行わずそのまま留年と判定する。
そうしてこれらのルールによって、せきね(仮名)の学習への評価は年度初めから進行している。
常々生徒に呼びかける、「いっしょに卒業しよう」という言葉はわたしの心の底からの願いだが、かといってそれは無条件に進級・卒業することを意味しない。鍛えに鍛え、練習を重ねてたどりついた部活動の成果のように、苦楽をともにして分かち合うべきものであると強く思う。
弛緩した何の感慨もない年月の経過は、禽獣の持つ時間感覚であろう。
中高一貫部の3分の2ほどの生徒の学校生活はおおよそ理解している。この年度の最後に、進級させるか否か、賛成票を投じるか反対票を投じるかの決断はつけた。(もちろん今後それが変わることもあり得るが)
進級になんら問題のない生徒もいるが。
……教員の判断として、進級に異議を差し挟まねばならぬ生徒も。
折に触れて、改善すべき点については全て本人に話すのだが。
これが。
なかなか通じないのだな。
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