親不知、子不知。(おやしらず、こしらず。)
2006年7月11日 お仕事 コテンと寝てしまって、起きたのは朝の6:30。結果としてまるまる12時間を寝たことになった。
たまたまというか、今日は午前研修というやつで、5限めの授業に間に合うようにすればいいという日だった。
「研修」とは「自由に勉強なりをすればいい」というわけであって、生徒の家に行った時もあったし、普通と同じように朝から学校に出かけていって他の先生の授業から学んだりしたこともある。
わたしの場合、大抵は、前日の夜からがーっと国語のことを考え続ける。
デスクトップのパソコンがこたつテーブルに置いてあり、そのわきにもうひとつテーブルがあって、本とノートを広げ、百科事典のような感じでweb検索をして、調べたことが合っているかを確認している。そうしていろいろ考えたまま寝て、研修の午前中に調べ物を続けたりしている。
まぁ週末の方がそういうことを徹底してやれるんだけど、午前研修もあればあったで使えないことはない。
留守電が入っていて、それは実家の母親からであった。
昨日のことを心配していたのだろう。
時間をみて、電話をかけた。
せきね(仮名)一族には、教員は誰もいない。
もっと言うと、大学を出た者も本当に少ない。
祖父・祖母の代は商売人であり、農家である。
文字通りに、地に根を張るようにして暮らしてきた。
だから、大学に行けば盆と正月がいっぺんに来たかのような騒ぎだし、教員になったと言えばものすごい喜びようだった。
……だった。
実際には、あまりに感覚が違っているようで、どうにもそこがやりきれない思いになる。
もはや、子は成人してずいぶん経つから、学校に入るなんてことはないのだろう。学校に対する考え方が、ニュースやドキュメンタリーやドラマなんかで偏向が強まったものになってしまっていて、時折あまりの頑迷さに辟易してしまう。
今回も、そうなりそうだなと思っていたら、やはりそうなってしまった。
「もう夏休みが近いんだから、再検査まで休みを取ったら?」とか言う。
いや、今の勤め先は夏休み明けすぐに期末試験だから、と言うと。
「勉強する子はするし、しない子はしないから(別に先生が休んだってどうっていうこと無い)」とか。
……そりゃそうなんだけど。
「休んだぶん、試験範囲せまくしちゃえばいいじゃない」
……それじゃ生徒の勉強が薄っぺらになるじゃん。
そんなやりとりから、悪いことでも一族で見ない経験をすることに対しての愚痴が出る。抜け毛があって、いまだに独身で、おまけに今回へたすれば入院に至るような病気の可能性。
全部まとめて「誰かが積極的に評価して大切にしてくれるわけでもなし、自分を犠牲にしたり体を壊したりするほど仕事をすることはない」ということになってしまう。
だいたいのことは黙って流すのだけれど、仕事のことばかりはそういかない。
いつまで独身だろうが、ストレスで体を悪くしようがソンナモノは些事でしかない。
今の世に、うまくいって当たり前、少しでも至らないことがあればさんざんバッシングされる教員という仕事をしているのだから、少々の不具合など出てきて当然、むしろ今まで救急車に乗らなかったのが幸いと言うべきだ。
結石程度では人は死なない。(むちゃくちゃ痛いけど)
そもそも。
生き死にとは、自分の意志でどうにか成るようなものでは無い。
家族がどう心配しようと。
人は意思に因らず勝手に生き、勝手に死んでいく。
そこまで言ってしまった。
もしかしたら、話が終わってから。
電話の向こうで泣いたかもしれない。
親は、いつまで経っても家族のことが心配で、第一なのだと思う。
子だって、いつまでも親は親だ。できれば第一に考えたいけれど。
だいたい、偉そうに言ったって。
きっと。
教室には、菓子の袋が放置されているだろう。
掃除場所の階段は、埃がたまっているだろう。
授業では。
相変わらず適当に聞いているふりをして。
適当におしゃべりをし。
適当に居眠りをする。
叱っても、たいして変わらないだろう。
それでも。
どれだけ苦しくても。
生徒たちへのいとおしさは何故か已まない。
それは。
むしろ表れる言葉としてはキツイ。
ペットを飼うように愛玩し、飽きたら捨てるのとは違うから。
生徒たちが世界に出ていって、相手にされないのでは哀しいから。
ただただ「かわいい」「かわいい」と言うことでは意味がないから。
そもそもが。
わたしがやろうと決め、やりたいと願った仕事だから。
たまたまというか、今日は午前研修というやつで、5限めの授業に間に合うようにすればいいという日だった。
「研修」とは「自由に勉強なりをすればいい」というわけであって、生徒の家に行った時もあったし、普通と同じように朝から学校に出かけていって他の先生の授業から学んだりしたこともある。
わたしの場合、大抵は、前日の夜からがーっと国語のことを考え続ける。
デスクトップのパソコンがこたつテーブルに置いてあり、そのわきにもうひとつテーブルがあって、本とノートを広げ、百科事典のような感じでweb検索をして、調べたことが合っているかを確認している。そうしていろいろ考えたまま寝て、研修の午前中に調べ物を続けたりしている。
まぁ週末の方がそういうことを徹底してやれるんだけど、午前研修もあればあったで使えないことはない。
留守電が入っていて、それは実家の母親からであった。
昨日のことを心配していたのだろう。
時間をみて、電話をかけた。
せきね(仮名)一族には、教員は誰もいない。
もっと言うと、大学を出た者も本当に少ない。
祖父・祖母の代は商売人であり、農家である。
文字通りに、地に根を張るようにして暮らしてきた。
だから、大学に行けば盆と正月がいっぺんに来たかのような騒ぎだし、教員になったと言えばものすごい喜びようだった。
……だった。
実際には、あまりに感覚が違っているようで、どうにもそこがやりきれない思いになる。
もはや、子は成人してずいぶん経つから、学校に入るなんてことはないのだろう。学校に対する考え方が、ニュースやドキュメンタリーやドラマなんかで偏向が強まったものになってしまっていて、時折あまりの頑迷さに辟易してしまう。
今回も、そうなりそうだなと思っていたら、やはりそうなってしまった。
「もう夏休みが近いんだから、再検査まで休みを取ったら?」とか言う。
いや、今の勤め先は夏休み明けすぐに期末試験だから、と言うと。
「勉強する子はするし、しない子はしないから(別に先生が休んだってどうっていうこと無い)」とか。
……そりゃそうなんだけど。
「休んだぶん、試験範囲せまくしちゃえばいいじゃない」
……それじゃ生徒の勉強が薄っぺらになるじゃん。
そんなやりとりから、悪いことでも一族で見ない経験をすることに対しての愚痴が出る。抜け毛があって、いまだに独身で、おまけに今回へたすれば入院に至るような病気の可能性。
全部まとめて「誰かが積極的に評価して大切にしてくれるわけでもなし、自分を犠牲にしたり体を壊したりするほど仕事をすることはない」ということになってしまう。
だいたいのことは黙って流すのだけれど、仕事のことばかりはそういかない。
いつまで独身だろうが、ストレスで体を悪くしようがソンナモノは些事でしかない。
今の世に、うまくいって当たり前、少しでも至らないことがあればさんざんバッシングされる教員という仕事をしているのだから、少々の不具合など出てきて当然、むしろ今まで救急車に乗らなかったのが幸いと言うべきだ。
結石程度では人は死なない。(むちゃくちゃ痛いけど)
そもそも。
生き死にとは、自分の意志でどうにか成るようなものでは無い。
家族がどう心配しようと。
人は意思に因らず勝手に生き、勝手に死んでいく。
そこまで言ってしまった。
もしかしたら、話が終わってから。
電話の向こうで泣いたかもしれない。
親は、いつまで経っても家族のことが心配で、第一なのだと思う。
子だって、いつまでも親は親だ。できれば第一に考えたいけれど。
だいたい、偉そうに言ったって。
きっと。
教室には、菓子の袋が放置されているだろう。
掃除場所の階段は、埃がたまっているだろう。
授業では。
相変わらず適当に聞いているふりをして。
適当におしゃべりをし。
適当に居眠りをする。
叱っても、たいして変わらないだろう。
それでも。
どれだけ苦しくても。
生徒たちへのいとおしさは何故か已まない。
それは。
むしろ表れる言葉としてはキツイ。
ペットを飼うように愛玩し、飽きたら捨てるのとは違うから。
生徒たちが世界に出ていって、相手にされないのでは哀しいから。
ただただ「かわいい」「かわいい」と言うことでは意味がないから。
そもそもが。
わたしがやろうと決め、やりたいと願った仕事だから。
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