いるか君が走った日。
2006年5月13日 学校・勉強 コメント (1) 土曜日にも、普通に学校で何かがある。
楽になってる、楽になってる、と念じているが、いい加減キツイ。
「自分で可能な限りの良い仕事」を考えると、夜がいくらあっても足りない。
筋道を立てて物語の主題に到達するよう、板書の図式化をするために検索をかけたwebページを10も20も閲覧して考え込んだり。
どの文法事項をどう説明するか、箇条書きたった1行のために大学ノートをじっと眺め続けたり。
教員の世界全体でどれほど拙くても、今の仕事が自分の中での至高であることは間違いない。時間も手間も参考にした書籍の費用も、比べることのできる物が無い。
そうして土曜日の次は日曜日だと思ってしまって、つい睡眠時間など有って無いような生活になってしまう。生徒には「疲れて体調崩すんだから家ではとっとと寝ろ! よい子は9時半に寝ろ!」と言うが、我が身を振り返ると自分の方が9時半に寝るべきなんじゃないかと考えてしまう。
職場で寝たり遅刻したりしないのが救いである、というか、そうなったら生徒にモノを言えない……。
そんなこんなであくびをかみ殺しながら、高等部で初めての登校指導。
雨のぱらつく国道近くの歩道橋(学校まで約10分強)で、50分間立ち続ける。
とりあえず、隙を見て歩道橋の下を突っ走った中等部の大馬鹿者を叱りつけた以外はほぼ順調。
朝、いるか君に会った。
その歩道橋へ、8:20ころ走ってきたのである。
今日は8:30登校、8:40出欠確認という指示が出ていた。まあそうしたら8:40に間に合うようにすればいいのであろうが、遅刻しないようにであろうか、ともかく走っていた。
昼、去年担任をした生徒に会った。
階段ですれ違った時、「センセ、古文のプリントください」と言う。
「今は教科担当が違うから、そちらの先生に義理を欠くようにして気楽にプリントを渡したり教えたりすることはできない。けれど、君がかつて授業担当だったせきね(仮名)に、ごく個人的に質問に来るならばいろいろと援助することはできる」と返事をした。
「じゃあ、後で職員室に行きますから」
そう言って、部活をしに出かけていった。雨の中、きっと泥だらけになることも気にせずに、グラウンドでボールを追いかけるのだろう。
気持ちなんか、外からは見えない。
そもそも見えないから、「内実」なんていう言葉がある。
おれは、金八とかGTOとか阿久津真矢といったファンタジー世界の住人ではないし、ヤンキー先生や夜回り先生や他の偉大な教員でもない。
「生徒の気持ちが判る教員」からは、遙か遠い。
遅刻しないように走っていたかどうか、判らない。
ただ単にトイレのために駆けていたのかもしれないし、登校の時間を間違えていたのかもしれない。
本当に切実に勉強することを求めていたのかどうか、判らない。
ただ何となく気分で声をかけてきたのかもしれないし、おれがある意味では今の総力を賭けている仕事を本当に生かしていこうと思っているか判らない。
「内実」は、判らないのだ。
けれども。
そこから現れる行動によって「内実」をうかがい知ろうとすることはできる。
「遅刻しそうだ」と思った時点で、急ごうという気持ちを全て捨ててしまう生徒もいる。
授業は寝て、かといって自分の全てを賭ける課外活動があるわけでもなく、ひたすら怠惰に、不快から逃げ回っている生徒もいる。
今日の生徒総会を、思う。
校長などの教員による講話を中身の無い話と蔑む者が。
「良き学校にしていこう」「これから大会に出場する選手を応援しよう」と思い企画を立てている生徒に対して、同じように軽んじてまともに耳を傾けないというこの醜悪さ。
「大人は判ってくれない」
それは本来、将来ある者が既成の物を乗り越えて成長していく叫びであろう。だからその気持ちは受け止めても良いのではないかと思う。
しかしその叫びには同時に、将来の有り奮闘する者への、敬意と連帯が伴う筈だ。
「利のみで動く、大人の汚さはキライだ」
その思いは許す。その気持ちが人類を発展させてきたと感じるから。
「あいつらバカじゃないの」
懸命な者たちを冷ややかに嘲笑する態度が、真実許し難い。
それでいて「自分は充分に認められていない」と嘆いてみせる態度がどんなに情けないか、気付かないのである。
「自分を判ってくれる者なんか居ない」
当たり前だ。
他人の良さを認め、協力できない者が。
他人から認められ、大切にされる筈が無い。
我が儘さに対して、密かに辟易され放置されるか。
自分が大切に思うものを、理解されずに嘲笑されるか。
大切に思うものさえ見つからず、何も残らない日々を過ごすか。
たとえ「内実」が見えなくとも。
ごく些細な振る舞いによって、手を取り合うべき者や援助する者は必ず現れる。
せめておれのできる限りで。
懸命な生徒たちに、役に立つことのできる仕事をしたいものだ。
楽になってる、楽になってる、と念じているが、いい加減キツイ。
「自分で可能な限りの良い仕事」を考えると、夜がいくらあっても足りない。
筋道を立てて物語の主題に到達するよう、板書の図式化をするために検索をかけたwebページを10も20も閲覧して考え込んだり。
どの文法事項をどう説明するか、箇条書きたった1行のために大学ノートをじっと眺め続けたり。
教員の世界全体でどれほど拙くても、今の仕事が自分の中での至高であることは間違いない。時間も手間も参考にした書籍の費用も、比べることのできる物が無い。
そうして土曜日の次は日曜日だと思ってしまって、つい睡眠時間など有って無いような生活になってしまう。生徒には「疲れて体調崩すんだから家ではとっとと寝ろ! よい子は9時半に寝ろ!」と言うが、我が身を振り返ると自分の方が9時半に寝るべきなんじゃないかと考えてしまう。
職場で寝たり遅刻したりしないのが救いである、というか、そうなったら生徒にモノを言えない……。
そんなこんなであくびをかみ殺しながら、高等部で初めての登校指導。
雨のぱらつく国道近くの歩道橋(学校まで約10分強)で、50分間立ち続ける。
とりあえず、隙を見て歩道橋の下を突っ走った中等部の大馬鹿者を叱りつけた以外はほぼ順調。
朝、いるか君に会った。
その歩道橋へ、8:20ころ走ってきたのである。
今日は8:30登校、8:40出欠確認という指示が出ていた。まあそうしたら8:40に間に合うようにすればいいのであろうが、遅刻しないようにであろうか、ともかく走っていた。
昼、去年担任をした生徒に会った。
階段ですれ違った時、「センセ、古文のプリントください」と言う。
「今は教科担当が違うから、そちらの先生に義理を欠くようにして気楽にプリントを渡したり教えたりすることはできない。けれど、君がかつて授業担当だったせきね(仮名)に、ごく個人的に質問に来るならばいろいろと援助することはできる」と返事をした。
「じゃあ、後で職員室に行きますから」
そう言って、部活をしに出かけていった。雨の中、きっと泥だらけになることも気にせずに、グラウンドでボールを追いかけるのだろう。
気持ちなんか、外からは見えない。
そもそも見えないから、「内実」なんていう言葉がある。
おれは、金八とかGTOとか阿久津真矢といったファンタジー世界の住人ではないし、ヤンキー先生や夜回り先生や他の偉大な教員でもない。
「生徒の気持ちが判る教員」からは、遙か遠い。
遅刻しないように走っていたかどうか、判らない。
ただ単にトイレのために駆けていたのかもしれないし、登校の時間を間違えていたのかもしれない。
本当に切実に勉強することを求めていたのかどうか、判らない。
ただ何となく気分で声をかけてきたのかもしれないし、おれがある意味では今の総力を賭けている仕事を本当に生かしていこうと思っているか判らない。
「内実」は、判らないのだ。
けれども。
そこから現れる行動によって「内実」をうかがい知ろうとすることはできる。
「遅刻しそうだ」と思った時点で、急ごうという気持ちを全て捨ててしまう生徒もいる。
授業は寝て、かといって自分の全てを賭ける課外活動があるわけでもなく、ひたすら怠惰に、不快から逃げ回っている生徒もいる。
今日の生徒総会を、思う。
校長などの教員による講話を中身の無い話と蔑む者が。
「良き学校にしていこう」「これから大会に出場する選手を応援しよう」と思い企画を立てている生徒に対して、同じように軽んじてまともに耳を傾けないというこの醜悪さ。
「大人は判ってくれない」
それは本来、将来ある者が既成の物を乗り越えて成長していく叫びであろう。だからその気持ちは受け止めても良いのではないかと思う。
しかしその叫びには同時に、将来の有り奮闘する者への、敬意と連帯が伴う筈だ。
「利のみで動く、大人の汚さはキライだ」
その思いは許す。その気持ちが人類を発展させてきたと感じるから。
「あいつらバカじゃないの」
懸命な者たちを冷ややかに嘲笑する態度が、真実許し難い。
それでいて「自分は充分に認められていない」と嘆いてみせる態度がどんなに情けないか、気付かないのである。
「自分を判ってくれる者なんか居ない」
当たり前だ。
他人の良さを認め、協力できない者が。
他人から認められ、大切にされる筈が無い。
我が儘さに対して、密かに辟易され放置されるか。
自分が大切に思うものを、理解されずに嘲笑されるか。
大切に思うものさえ見つからず、何も残らない日々を過ごすか。
たとえ「内実」が見えなくとも。
ごく些細な振る舞いによって、手を取り合うべき者や援助する者は必ず現れる。
せめておれのできる限りで。
懸命な生徒たちに、役に立つことのできる仕事をしたいものだ。
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