昨日の入学式の最後に、宿題を出した。
「生活記録」
(1)記名する。
(2)今日のできごとをていねいに書く。
(3)高校生活での目標とその説明・理由を4行いっぱいまで書き、明日発表する。
 "4行いっぱい"とは、女子生徒がていねいに書くと200字程度、男子生徒でも150字くらいとなる。
 表現を変えると、このような宿題になる。
高校生活での目標と、その説明・理由について原稿用紙半分程度で書きなさい。

 残念ながら今日は発表する機会を持つことができず、やむを得ず帰りに回収して解散した。
 
 その後は、会議の準備をしたり生徒会の手伝いをしたり会議の準備をしたりして過ごした。そうして再び「生活記録」を意識したのは21時過ぎ。
 
 「生活記録」に目を通し始めたが……妙に冊数が多い。
 
 数えてみた。
 公欠の生徒以外、すべての生徒が提出していた。
 途中で公欠で出かけていった生徒たちはとてもしっかりした生徒であるから、発表をしないように考えて朝の時点で集めていれば、本当に100%となったであろう。
 きっと他のどのクラスも「宿題」などという言葉を出さなかっただろうに。
 「提出」と言ったそれだけで、ぱっと揃ったのであった。
 
 恥をさらすようだが、生徒たちの提出物がいっぺんに揃った時など中等部2年の初めころに絶えて以来、本当に久しかった。
 どんな提出物だろうが、何をしようが、誰かが未提出だったのである。

 かなり感動してしまった。
 
 「ハンコを押すだけにしよう」と思い、宿題を出した時に考えた観点に従って「可」「不可」の評価をしていったのだが、この行いに応えたくて、全員の記事にコメントを書いた。

 どの決意も良かった。
 その決意を実現できるようなクラスにしたい、と思った。
 
 「生活記録」はただの日記でたいしたことはない、と軽んじられそうであるが、決してそんなことはないと考えている。
 学校のある時は毎日書いて提出する、この苦労はけっこうなものだ。本気でやったら、毎日200字書くのである。
 少しずつ考察しているのだが、この「生活記録」はとんでもない代物なのかもしれない、という予感がしている。
 
 使い方によって、生徒の「学ぶ力」を底上げしたり、逆に底を抜いたりしてしまっているように感じられるのだ。
 
 「生活記録」をまともに書いていない者が、必ずと言っていいほどすごい勢いで成績を傾けているようなのである。
 成績の下がりようが明らかに見える場合と、成績を保っているようでいて空洞化が進み、ある日突然地盤沈下するようになる場合とがある。
 また、空虚で手抜きをした書き方を続けていても、やはり「学ぶ力」のどこかがおかしくなっていく。
 
 スポーツで基礎練習をどれだけやっていたかと、とてもよく似ているようにも思える。
 どんなにボールさばきが上手でも、すぐにへばるのでは使い物にならない。長い時間平然と動き続けられる側がより勝利に近いのは、自明の理であろう。
 
 まあ、まだ論を立てられるほどの確証はないのだが。
 それでも、成績を上げたいのならば「生活記録」にこだわり抜くべきではないかとも言える。
 
 ともかくも国語の教員にとって、まとまった文章を苦もなく書く力を持っている生徒集団は最高峰の集団であり、「できないことは何も無い」という世界に入っていく期待を持つことができる。
 
 決意を行動につなげ、良い結果をむしり取ってこられるような実力を付けさせてやりたいな、と思った。
 そこは教員の勝負にもなっていくだろう。
 望むところである。

コメント

nophoto
2006年4月17日10:20

今回公欠人以外出していたなんてすごい!!生徒さんあなたを「担任」と認めてるんじゃないですか?

せきね(仮名)
せきね(仮名)
2006年4月17日10:36

はじめまして、かな。
どうでしょうね。いずれにせよ今後も良い習慣を続けていきたいものだと思います。

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