学級通信79号(配布版)。
2006年3月25日 学校・勉強 卒業式の後も、講座や数学検定やミニ文化祭などがあって「中等部生活が終わりだ」という感覚をいまいち持つことができなかった。
けれども、今日ようやく中学3年最後の登校日となった。
あらためてみんなに言いたい。
卒業おめでとう。
いよいよ、コドモではなくオトナとしての振る舞いを求められる年齢となっていく。
中学生の時に切望していた(かもしれない)自由のいくつかが、高校生以降から手に入る。
社会に意見を述べる自由。
仕事を持つ自由。
勉強をする自由。
勉強をしない自由。
愛する人と結婚し、家庭を持つ自由。(知られているとおり法律上では男は18歳以上、女は16歳以上。未成年者の場合は親権者の監督を要するのだが、まあ高校生の年齢のうちに自由になる)
それは、他人の自由や権利を侵害しない限り認められるべきものだ。
実のところ、自由というものは結構な負担になる。
そして自由であり続けるためには、相応の責任を果たすことを求められる。
たとえば。
自分の「勉強しない自由」は、隣の席の「勉強する自由」を妨害してはならないし、「愛する人と結婚し、家庭を持つ自由」は、生まれてくる子どもの「人間として健全に育てられる権利」を20年近くは守り続けなければならない。
また、自由は不安定でもある。
自由に生きようと思えば、乱気流をゆく渡り鳥のように、浮いたり沈んだり、追い風で快適だったり、向かい風で翼を折られてしまうかのように感じたりすることもある。
ここの高等部で次の卒業証書をもらうのも、自由。
他の高校で卒業証書をもらうのも、自由。
いっそ高等学校の卒業証書をもらわないのも、それも自由。
せきね(仮名)は教員であり、「"学校"というシステムのすばらしさ」を本気で信じている人種だから、3つめの自由は決して勧めない。
親御さんも学校で学ぶことの大切さを痛感しているから高校に通わせてくれているのだろう。
しかし、最終的にはひとりひとりが人生の重大な選択として"自由"を選び取ることになる。
そしてその結果は、すべて自分自身の人生として受け止めていくしかない。
こんな"自由"が、ときには耐え難いほどの苦悩をもたらす。「いっそ不自由な方がマシかもしれない」「誰か代わりに決めてくれないか」と思ってしまうくらいに。
他人が敷いたレールにのったふりをして不平を言う方が、よほど楽だ。
クラスメートが悪い。
教員が悪い。
学校が悪い。
親が悪い。
家族が悪い。
環境が悪い。
そう言って過ごし、それだけで毎日を送り、自分がこの世の一切の悲劇を背負っているかのように苦しんでみせる。
それは真実のようでいて。
実のところ、安易な逃避でしかない。
たとえ、どんなにつらいことがあったとしても。
自分の人生を大切にしてほしい。
だから。
編集していた「卒業アルバム」の最後に、贈る言葉としてせきね(仮名)はこう書いた。
あらためて言いたい。
卒業、おめでとう。
君たちの行く手に何が在ろうと。
決して負けずに、朗らかに人生を歩まれんことを。
けれども、今日ようやく中学3年最後の登校日となった。
あらためてみんなに言いたい。
卒業おめでとう。
いよいよ、コドモではなくオトナとしての振る舞いを求められる年齢となっていく。
中学生の時に切望していた(かもしれない)自由のいくつかが、高校生以降から手に入る。
社会に意見を述べる自由。
仕事を持つ自由。
勉強をする自由。
勉強をしない自由。
愛する人と結婚し、家庭を持つ自由。(知られているとおり法律上では男は18歳以上、女は16歳以上。未成年者の場合は親権者の監督を要するのだが、まあ高校生の年齢のうちに自由になる)
それは、他人の自由や権利を侵害しない限り認められるべきものだ。
実のところ、自由というものは結構な負担になる。
そして自由であり続けるためには、相応の責任を果たすことを求められる。
たとえば。
自分の「勉強しない自由」は、隣の席の「勉強する自由」を妨害してはならないし、「愛する人と結婚し、家庭を持つ自由」は、生まれてくる子どもの「人間として健全に育てられる権利」を20年近くは守り続けなければならない。
また、自由は不安定でもある。
自由に生きようと思えば、乱気流をゆく渡り鳥のように、浮いたり沈んだり、追い風で快適だったり、向かい風で翼を折られてしまうかのように感じたりすることもある。
ここの高等部で次の卒業証書をもらうのも、自由。
他の高校で卒業証書をもらうのも、自由。
いっそ高等学校の卒業証書をもらわないのも、それも自由。
せきね(仮名)は教員であり、「"学校"というシステムのすばらしさ」を本気で信じている人種だから、3つめの自由は決して勧めない。
親御さんも学校で学ぶことの大切さを痛感しているから高校に通わせてくれているのだろう。
しかし、最終的にはひとりひとりが人生の重大な選択として"自由"を選び取ることになる。
そしてその結果は、すべて自分自身の人生として受け止めていくしかない。
こんな"自由"が、ときには耐え難いほどの苦悩をもたらす。「いっそ不自由な方がマシかもしれない」「誰か代わりに決めてくれないか」と思ってしまうくらいに。
他人が敷いたレールにのったふりをして不平を言う方が、よほど楽だ。
クラスメートが悪い。
教員が悪い。
学校が悪い。
親が悪い。
家族が悪い。
環境が悪い。
そう言って過ごし、それだけで毎日を送り、自分がこの世の一切の悲劇を背負っているかのように苦しんでみせる。
それは真実のようでいて。
実のところ、安易な逃避でしかない。
たとえ、どんなにつらいことがあったとしても。
自分の人生を大切にしてほしい。
だから。
編集していた「卒業アルバム」の最後に、贈る言葉としてせきね(仮名)はこう書いた。
誰のものでもない 自分自身の人生を征け せきね(仮名)
あらためて言いたい。
卒業、おめでとう。
君たちの行く手に何が在ろうと。
決して負けずに、朗らかに人生を歩まれんことを。
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