白い雪は、心の澱みも覆い隠せるのか。
2006年1月21日 お仕事 コメント (1) 早朝から積雪。
学校が開始した時点でこれからひどくなる可能性も考えられたので、会議の末、朝の会の後に生徒下校。
生徒が雪合戦しているのに混じって遊ぶ。
他のことを考えずに遊んで、気分を切り替えようと試みる。
学校に遅れてやって来た生徒、来なかった生徒はどういうふうに今日の朝を過ごしたのだろうな、という、考えるだけ無駄なことを考え始めてしまっていたから。
「わーい」と笑いながら寄ってきて、ありったけの雪を放り投げてくる生徒たちに囲まれて、笑って過ごす方がよっぽど健全だろうから。
中等部から高等部に進学するために、必要な書類がある。
入試後であれば、合格手続きや入学手続きのための一連の書類であり、一貫校であってもやはり必要な書類はある。
もちろん、それが揃わなければ進学できない、と言っても過言ではない書類である。
うちの中高一貫では、現在のところふたつ。
高等部への進学希望願い。
高等部での芸術選択・格技選択の用紙。
進学の希望を確認せずに学校側で高等部に編入することはあり得ないし、高等部での選択科目を決定しなければ進学して受ける授業が無い。
中等部に入る際に書類を揃えて受験をしなかった者は、そもそも在籍していない。
だからこういった書類に対しては、生徒も家庭もことのほか敏感であろうと思っていた。
それでも念を押して、配布した時、学級通信、1日の猶予、帰りの会での指示、と繰り返してきた。
……もともとしつこい話はキライな性分である。何度も同じ内容を繰り返す話は、話す者の知性を疑う。けれども自分の性向よりも大切なことであるから、敢えて話題にしてきた。
結果。
多くの生徒は書類を提出してきた。
しかし。
保護者は子どもが書き込む内容よりも先に署名捺印。
期限は遅れて当たり前。
読めるか読めないか判別しがたい字。
思わず、「家に取りに帰れ」「やり直せ」と言わざるを得なかった。
さらにその結果。
仕事中の保護者に連絡を取って、来校してもらった生徒もいた。
しかし。
印鑑を自分で買い、生徒が書くところと印を押し、他の生徒に保護者署名をさせ、つじつまを合わせるために校外で時間つぶしをした。
そんなものが無事に済むはずがない。
さらに家庭に連絡をして、夜になって書き直しをしてもらうより他なかった。
わたしは、おかしいだろう、と思った。
これは偽りなくそう思った。
さらにその結果。
呼んだ生徒は、しばらくうそをつき続けた。
戯れで夜に会う用件を担任が出してくるわけがないのに。
わたしが忍びないと思い、最後の最後まで持ち出したくなかった物まで出して、うそをついたことを認めさせるしかない状況になった。
他の、ある生徒は。
署名について不審な点があると1度問い合わせの電話した時点で、保護者が「署名・捺印をした」と言った。
何かの間違いがあったかと思い、再度状況を確認してもやはりおかしい。どう考えてもその保護者は署名をしていたとは考えられない状況である。
そこで再び電話連絡をした。生徒に問いつめるような電話となった。
途中で、保護者が代わった。
結局子どもから話を聞いていたが、保護者が署名をしたことにしてその書類を提出しようとした、やったことは良くないが機転を効かせたことだからむしろ褒めるぐらいである、という話だった。
わたしは愕然とした。
いずれにせよ書類は直してもらった。
しかし、「誰が高等部に進学したいと願って懸命になっているだろう」と日付を越えた職員室で嘆息するしかなかった。
"入学試験並み"であるならば。
期限に間に合わなければ締め切り、不備の問い合わせに対してまともな返事がなければ入学どころか試験自体が受けられない。
「裏切られた」とかなしい思いに落ち込みかけて、ふと思考の方向性に気が付いた。
それが、今の時代の常識なのかもしれない。
きっと、自分は最善の行動を取ったと思っているだろうから、彼ら彼女らはどんな形で公開しようと、自らの正しさを確信しているであろう。
そう。
教員は、形だけ、ものを教えたふりをすればいい。
生徒も家庭も、形だけ、ものを教わったふりをすればいい。
授業崩壊も家庭崩壊も、見え見えの知らぬふりをして、互いに無縁になる時が来るまで放置しておけばいい。
少しの間のつきあいが終わるまで、せいぜい仲の良さを演じていけばいいのだ。
そうではないだろう、と根拠もなく思っていた自分に気付く。
わたしが学校という「世間知らずな組織」に埋没してしまっているから、世の中の機微に無知なのかもしれない。
常識などというものは、同じ思考の地平に立ってこそ初めて成り立つものだ。
信頼などというものは、同じ利益があってこそ初めて成り立つものだ。
この、ごくごく当たり前のことを、事実から教えられた。
愚鈍な自分には、きっと良い薬なのであろう。
幾人かの生徒が登校し。
幾人かの生徒が休み。
幾人かの生徒が遅刻し。
幾人かの家庭が子どもを送り出し。
幾人かの家庭から連絡があり。
幾人かの家庭から連絡がない。
それらの全てが。
雪が降って大変ななかで学校があって、懸命にたどりつこうとしたその結果なのだ、とわたしには以前のように考えられない。
単純に、明快に、そう思うことはできない。
わたしには、わからない世界。
完全下校以降、生徒が家にたどり着くであろう時間まで職員室に待機していて、それから帰宅する。
「もし電話があったら、なんてね」と同僚には笑いながら言うこんな行動も、何の意味のない可能性を、わたし自身がきっと一番理解している。
学校が開始した時点でこれからひどくなる可能性も考えられたので、会議の末、朝の会の後に生徒下校。
生徒が雪合戦しているのに混じって遊ぶ。
他のことを考えずに遊んで、気分を切り替えようと試みる。
学校に遅れてやって来た生徒、来なかった生徒はどういうふうに今日の朝を過ごしたのだろうな、という、考えるだけ無駄なことを考え始めてしまっていたから。
「わーい」と笑いながら寄ってきて、ありったけの雪を放り投げてくる生徒たちに囲まれて、笑って過ごす方がよっぽど健全だろうから。
中等部から高等部に進学するために、必要な書類がある。
入試後であれば、合格手続きや入学手続きのための一連の書類であり、一貫校であってもやはり必要な書類はある。
もちろん、それが揃わなければ進学できない、と言っても過言ではない書類である。
うちの中高一貫では、現在のところふたつ。
高等部への進学希望願い。
高等部での芸術選択・格技選択の用紙。
進学の希望を確認せずに学校側で高等部に編入することはあり得ないし、高等部での選択科目を決定しなければ進学して受ける授業が無い。
中等部に入る際に書類を揃えて受験をしなかった者は、そもそも在籍していない。
だからこういった書類に対しては、生徒も家庭もことのほか敏感であろうと思っていた。
それでも念を押して、配布した時、学級通信、1日の猶予、帰りの会での指示、と繰り返してきた。
……もともとしつこい話はキライな性分である。何度も同じ内容を繰り返す話は、話す者の知性を疑う。けれども自分の性向よりも大切なことであるから、敢えて話題にしてきた。
結果。
多くの生徒は書類を提出してきた。
しかし。
保護者は子どもが書き込む内容よりも先に署名捺印。
期限は遅れて当たり前。
読めるか読めないか判別しがたい字。
思わず、「家に取りに帰れ」「やり直せ」と言わざるを得なかった。
さらにその結果。
仕事中の保護者に連絡を取って、来校してもらった生徒もいた。
しかし。
印鑑を自分で買い、生徒が書くところと印を押し、他の生徒に保護者署名をさせ、つじつまを合わせるために校外で時間つぶしをした。
そんなものが無事に済むはずがない。
さらに家庭に連絡をして、夜になって書き直しをしてもらうより他なかった。
わたしは、おかしいだろう、と思った。
これは偽りなくそう思った。
さらにその結果。
呼んだ生徒は、しばらくうそをつき続けた。
戯れで夜に会う用件を担任が出してくるわけがないのに。
わたしが忍びないと思い、最後の最後まで持ち出したくなかった物まで出して、うそをついたことを認めさせるしかない状況になった。
他の、ある生徒は。
署名について不審な点があると1度問い合わせの電話した時点で、保護者が「署名・捺印をした」と言った。
何かの間違いがあったかと思い、再度状況を確認してもやはりおかしい。どう考えてもその保護者は署名をしていたとは考えられない状況である。
そこで再び電話連絡をした。生徒に問いつめるような電話となった。
途中で、保護者が代わった。
結局子どもから話を聞いていたが、保護者が署名をしたことにしてその書類を提出しようとした、やったことは良くないが機転を効かせたことだからむしろ褒めるぐらいである、という話だった。
わたしは愕然とした。
いずれにせよ書類は直してもらった。
しかし、「誰が高等部に進学したいと願って懸命になっているだろう」と日付を越えた職員室で嘆息するしかなかった。
"入学試験並み"であるならば。
期限に間に合わなければ締め切り、不備の問い合わせに対してまともな返事がなければ入学どころか試験自体が受けられない。
「裏切られた」とかなしい思いに落ち込みかけて、ふと思考の方向性に気が付いた。
それが、今の時代の常識なのかもしれない。
きっと、自分は最善の行動を取ったと思っているだろうから、彼ら彼女らはどんな形で公開しようと、自らの正しさを確信しているであろう。
そう。
教員は、形だけ、ものを教えたふりをすればいい。
生徒も家庭も、形だけ、ものを教わったふりをすればいい。
授業崩壊も家庭崩壊も、見え見えの知らぬふりをして、互いに無縁になる時が来るまで放置しておけばいい。
少しの間のつきあいが終わるまで、せいぜい仲の良さを演じていけばいいのだ。
そうではないだろう、と根拠もなく思っていた自分に気付く。
わたしが学校という「世間知らずな組織」に埋没してしまっているから、世の中の機微に無知なのかもしれない。
常識などというものは、同じ思考の地平に立ってこそ初めて成り立つものだ。
信頼などというものは、同じ利益があってこそ初めて成り立つものだ。
この、ごくごく当たり前のことを、事実から教えられた。
愚鈍な自分には、きっと良い薬なのであろう。
幾人かの生徒が登校し。
幾人かの生徒が休み。
幾人かの生徒が遅刻し。
幾人かの家庭が子どもを送り出し。
幾人かの家庭から連絡があり。
幾人かの家庭から連絡がない。
それらの全てが。
雪が降って大変ななかで学校があって、懸命にたどりつこうとしたその結果なのだ、とわたしには以前のように考えられない。
単純に、明快に、そう思うことはできない。
わたしには、わからない世界。
完全下校以降、生徒が家にたどり着くであろう時間まで職員室に待機していて、それから帰宅する。
「もし電話があったら、なんてね」と同僚には笑いながら言うこんな行動も、何の意味のない可能性を、わたし自身がきっと一番理解している。
コメント
高校でも、就職試験に臨む生徒に「髪を黒く染めなさい」「ルーズソックスは履いていかない」etc.と注意すると「えー?めんどくねぇ?」「茶髪でも良くね?」と言われたりします。他の誰でもないオマエの就職試験だろ!!と発狂しそうになったことも。
本人より周囲の方が必死。間違っている。あまりにも間違っていると思いますが。それが現代日本の縮図なのかもしれないと思い、思えば思うほど頭痛がします。