どんなツールにも長所と短所があって。
weblogでもブログでも日記でも、呼び名はどうでもいいのでけれど、この"自分の書いたことを発信するツール"にも気をつけなければいけないことがある。
それは、負の感性だけをつづることがないようにすること。
「言葉にする」「文にする」というのは、それだけ思考を明確にする作業である。特に書くという作業はしゃべるよりも思考の明確さを要求する。だから板書はノートに写すし、英単語は書いて覚えるし、大事なことはメモするし、願い事は紙に書いて常に見るのである。
「書く」ということは大変な作業なのだ。
だからこそ、不満を書いたりでたらめを書いたりすることが続けばそれは大変になるのではないかと、わたしは思う。
まあ、これは仮説であるので「そんなことはない」と退けられるかもしれない。
かといって、「かもしれない」を「そうなのだ」にするために、おいそれと実験するわけにもいかん。
「web日記に他人の愚痴を書いているのを放置していたら、人間関係がおかしくなり、あるとき空き教室で友人をカッターで切って殺しました」とか。
「メールで毎日他人の悪口を言いあっていて、気付いたら自殺が出るようないじめになっていました」とか。
「常日頃からウソやデマをおもしろおかしく言いふらして、どんな時にもとっさにごまかすようになりました」とか。
そういう検証をするわけにはいかんのだ。
苦しいことがあって、つらいということを書くのもたまには仕方ないと思う。悲しくて涙を流して気持ちの整理をつけて、再出発できることってあるから。
けれど。
日記を書けば恨み言しか出てこないのは、自分で危険信号だと気付いた方がいい。
「自分にプラスになっている」「鍛えられて向上している」そう思って、そこまでを記事として書こう。
キミが大事だから、書き残しておきます。
泣いてもいい。
だけど、次は笑っていた方がいいと思うんだ。
weblogでもブログでも日記でも、呼び名はどうでもいいのでけれど、この"自分の書いたことを発信するツール"にも気をつけなければいけないことがある。
それは、負の感性だけをつづることがないようにすること。
「言葉にする」「文にする」というのは、それだけ思考を明確にする作業である。特に書くという作業はしゃべるよりも思考の明確さを要求する。だから板書はノートに写すし、英単語は書いて覚えるし、大事なことはメモするし、願い事は紙に書いて常に見るのである。
「書く」ということは大変な作業なのだ。
だからこそ、不満を書いたりでたらめを書いたりすることが続けばそれは大変になるのではないかと、わたしは思う。
まあ、これは仮説であるので「そんなことはない」と退けられるかもしれない。
かといって、「かもしれない」を「そうなのだ」にするために、おいそれと実験するわけにもいかん。
「web日記に他人の愚痴を書いているのを放置していたら、人間関係がおかしくなり、あるとき空き教室で友人をカッターで切って殺しました」とか。
「メールで毎日他人の悪口を言いあっていて、気付いたら自殺が出るようないじめになっていました」とか。
「常日頃からウソやデマをおもしろおかしく言いふらして、どんな時にもとっさにごまかすようになりました」とか。
そういう検証をするわけにはいかんのだ。
苦しいことがあって、つらいということを書くのもたまには仕方ないと思う。悲しくて涙を流して気持ちの整理をつけて、再出発できることってあるから。
けれど。
日記を書けば恨み言しか出てこないのは、自分で危険信号だと気付いた方がいい。
「自分にプラスになっている」「鍛えられて向上している」そう思って、そこまでを記事として書こう。
キミが大事だから、書き残しておきます。
泣いてもいい。
だけど、次は笑っていた方がいいと思うんだ。
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