鬼哭。

2005年11月1日 日常
「せきね(仮名)さんだ」
 ひさびさに御茶ノ水へ行って、本を紙バッグ2袋ほど買い込んだ。そして夜の町並みを抜けて家へと帰ろうかという最中だった。
「びっくりした。いまだにメガネおんなじだから、思わず声かけちゃいました」
 それは大学の時の後輩だった。
「今の壊れたから、昔の…そうか、このメガネは大学にいたころのヤツだねぇ」
 口調は大学にいた頃のままなのに、彼女のひっそりとした笑い方に違和感を覚える。
 
 
 同期がみんな卒業してからも、おれは進学して大学に残った。
 必然、カフェテリアでおしゃべりする仲間はずっと減る。そうして研究室に居座ることになったおれに対して、入学後すぐに研究室にやってきて、ものおじせず話しかけてきたのは彼女だった。普通、大学に入学したら同期やサークルの仲間やらと人間関係を作る方を先にする学生が多いだろうなと思って、意外に感じた。
 何を好きこのんで研究室なんかに、と言ったこともある。
「んーと、大学って、勉強するところなんですよね?」というものすごい真っ当な返事を聞いてびっくりしたっけか。
 年賀状を送ってくる、ということでも大学生としては変わっていたかもしれない。
 
 そもそもおれは、大学を出てから、基本的にはずっと他の仲間たちと会っていない。
 だから、彼女とも年賀状のやりとりをするだけだった。
 
 今年の年賀状には、こうあった。
 
   仕事変えて、春から教師やることになりました
   また先輩にいろいろおしえてもらいたいです
 
 返事は、
 
   同業者にモノを教える技はトンとありませんが、
   報酬が「美人と酒盛り」でしたら考えときます
 
 もちろん戯れ言であるが、連絡先は書き添えておいた。
 
 
 夜の街だからはっきりわからないけれど、ずいぶん痩せたように感じられた。
 不安な感じがして、「元気?」という一言がかけられなかった。
「それは、本ですか?」
 とても有名な書店のロゴがある紙バッグを指して、彼女が聞いた。
「うん、教育書とか」
 そうか、たくさん勉強しているんですね、そうじゃないとダメなんですよね、って笑いながら言った。
「たいしたことないって。勤め先にはすごい先生がたくさんいるから、追っつかないんだ」
 そう言うと、ますます愁いを深めて彼女は笑う。

「私のぶんも、がんばってください。勝手な願いだけど」
「どういうこと?」
「先生、辞めました」
 なんで、なんて言えなかった。
 少しずつ遠くなっていく距離を縮めて、腕に触れた。
 服よりもずっとずっと細い、その腕に驚いた。
「今は、少しずつ元気になってきて、働き始めています。もっと元気になったら、いつかまた会ってください」
 じゃあ、と言って立ち去る姿を、ただ眺めた。
  
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 大学を出た後ほとんど連絡を取っていない伝手をそれでもたぐって、何があったのか聞いた。
 
 
 学校が人間を教育する機関である以上、どんな教員であっても仕事に慣れないうちはそこで生まれる人間関係に手こずる。
 それでも同僚や上司が支えたり、地域・保護者が支えたり、あるいはその熱意に児童生徒が感化されて協力したりする。そうして早い遅いはあるにせよ、教員はある程度の能力を備えるようになっていく。
 時計の針を早めるべく、教員の自助努力はもちろん必須となる。けれどともかくも、そういう時期はできてしまう。
 
 彼女は、一般企業から教員採用試験を経て、公立の小学校に赴任した。
 
 5年生の担任。
 前年度に授業が全く成り立たなくなった学級の持ち上がりであった。
 
 児童の心はすさんでいた。
 それを知る保護者の心もすさんでいた。
 その学校を知る教職員全てが担当したがらないという学級だった。
 
 そこへ彼女が新規採用になった。
 というよりも。
 何も知らない者を赴任させたのだろう。
 
 本来はその組織の中で最も力のある教員が、他の教職員や保護者を巻き込んで、「児童のために」学級を統率するべきなのだ。当然それはひどく疲労することであり、幾多の事件が起きるのも覚悟してのこととなる。
 
 決して新任の教員がやるべきことではない。
 
 普通の企業では、指示に対して真剣に働けば、おそらくは乗り越えられる役割を与えられることだろう。
 彼女はおそらく、そう考えて歯を食いしばる思いで働いていた。
 
 しかし、その学校の誰ひとりとして彼女を助けなかった。
 苦情は全てそのまま彼女に取り次いだ。
 苦境を見て見ぬ振りをした。
 あまつさえ彼女が全て悪い、仕事のしかたが生ぬるいと公言してはばからなかった。
 
 当然である。
 ことの最初から、犠牲の羊なのだから。
 そうして憎悪を一身に集めて倒れてくれれば、その後はただ「前よりはマシだろう」と言って適当にかわしていけばいいのだ。
 
 彼女は、ひたすら誠実にしていれば道が開けると思い続けた。
 学校は何よりも浄く、尊い人格錬成の場だと本気で信じていた。
 webに流れ、教員間で噂される、悪辣な愚策に気付くことができなかった。
 
 命の危険に及ぶほどに体重を減らし。
 そして。
 
 力尽きた。
 
 
 6月の末に、彼女は大学の知り合いに助けを求めたという。
 ……おれにも、きっと。
 
 そして7月の初めに、病院へ倒れ込むように入院し、そのまま辞表を出した。
 夏を過ぎて秋も盛りを過ぎて、ようやく退院したらしい。
 
 
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 苦しい。
 
 情熱を傾ける前に倒れざるを得なかった新任教員に。
 残酷なまでに無邪気で無知な児童たちに。
 学校とともに支え合うことが我が子を守ることにつながると気づけない家庭に。
 後進を自分以上の人材にするのではなく、生け贄にする同僚たちに。
 
 一番つらいその時に、そばにいることのできなかった自分に。
 
 
 すまない。
 君の夢を寄ってたかって叩き壊した列の中に、おれは参加してしまった。

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