昨日に自己紹介を書いて学級通信の原稿にしたが、「これを今本当に伝えたいことか?」という思いが時を経るにしたがって強くなり、出すのをいったんやめることにする。
 
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学級通信第2号。中学生活のルール確認

 学校生活は、集団生活。
 全員が間違いなく快適な日々を送るためには、誰かひとりが極度に我慢したり、命に危険が及ぶようなことがあってはならない。

 この当然なことのために、以下の3つの観点からルールを決める。

?なぜそのルールを守るべきか、その意義について皆が理解できるように話をする。いきなり厳しく指導するようなことをせず、納得して学校生活を送ることができるように、クラスのみんなを "ひとりの人間として" 誠実を第一に話をしたい。

?判りやすく、明確なルールを決める。
 ルールを作る際は、全員が守ろうとし、全員が達成することのできるものを作る。

?実施されるルールは、そのルールの大事さに応じて、守れなかった場合のペナルティを明確にする。
「ルールを守って損をした」気になるようなクラスにしない。

 ただし、以下の1点は「ルールの例外」とする。
 ☆命に危険が及ぶ場合。


 今度の教室は4階である。
 日の当たる明るい窓ぎわで、友達と話をするのはとても気持ちがいい。
 けれど窓枠に腰掛けて話をして、転落すればおそらく死に至る。

 ちょっとしたカッターナイフなどであっても、使っているところに懸命になって追いかけっこをしたり、ボール遊びをしていたら、大ケガをする可能性は相当大きい。
 
 教室移動中、階段でふざけたらどうなるか。

 命に危険が及ぶ可能性があるならば、絶対に止めなければならない。
 たとえ殴り飛ばすことになろうとも、せきねは断じて指導をする心がけでいる。
  (幸いなことに、今までそんなことはなかったが)

 せきねが言うこと、指示することは、基本的には細かいことにまで及んでいる。
 しかしながらそれを守ろうとしていく時に、必ず前途洋々たる可能性が開けていくことを約束することができる。せきね自身がそれだけの学びを重ね、考えて話をしていることは誰に対しても宣言することができる。

 そのルールはなぜ必要なのかを良く理解し、実行していっていただきたいと思う。
 
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 かなりまじめに話をしていて、他のクラスの生徒が廊下で待っていた。 
 
 コツコツ、と教室前の扉を叩く音。
 
 話を続けていると、さらに、コツンコツンと再び。
 
 生徒の大事な話を、端から聞かないせきねでもない。
 ことさらに普段から、延々と帰りの会を続けるせきねでもない。
 廊下で待っていれば、話をしてやや騒がしくなることもあるだろう。それが判らぬせきねでもない。
 
 廊下に出てみれば、それらしき生徒は居ない。
 つまり、故意。
 
 他のクラスの帰りの会を妨害し、いたずらをする者が居る。それも自分が誰かを判らなくさせようとする姑息さ。
 
 言うなれば、相当な浅はかさでもある。
 コンディションの悪い時をのぞいて、8m×7mの空間にいて生徒の様子が判らないはずがない。
 手紙を書こうとしている者、文庫本を読もうとしている者、他の教科の宿題をしようとする者、見えないと思っているのは本人だけである。少なくともせきねには、全部見えている。
 (ただ、授業で発見して注意をすれば、その生徒は少なからぬ恥をかく。その前に自分で授業に集中してくれば問題はない。そうでない場合だけ、やむなく名指しで注意するというふうにしている)
 
 ホームルームだって同様である。教室のどの生徒の意識が廊下に向かっているか、そして目の端に頭の先ぐらいが見えれば「友達の○×だな」という判断は簡単なくらいである。
 扉が叩かれた時。
 ただ音がして驚いた者と、友達がイタズラしたのだなと推測している者とでは音のしたところに向かう視線と表情が全く違う。
 
 扉を開ければ、誰もいない。
 遠くに、どう見ても不自然な生徒がいた。鼻で笑ってしまうくらい不自然であった。
 ……普通、いきなり教員が来たらもっと不審に思うなり、もっと落ち着くなりするもんだよ。落ち着きすぎていたり、慌てすぎたりしているんだよね。演技力不足。
 
 ともかくも、クラスの生徒たちには何の罪もない。
 「悪いね。大事なことだからしっかり受け止めてほしかったんだ」とさらりと言って、解散にする。
 「つかれたー」とも、飽き飽きしたような大きな伸びもせず、「さようなら」ときれいに言って終了。
 
 ちょっと、いとおしくなった。
 「楽しい中学最後の1年」を送らせてあげたいなあと、しみじみ思った。
 
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 挑戦しようというならば。
 それが大人へと登る階段であるのならば。
 そうするがいい。
 生徒−教員の関係は身分制度ではない。 
 
 ただし、冷酷なぐらい徹底するべきだ。
 安易に超えられる壁など、存在意義がない。
 学校に於ける教員がどれだけの能力を持っているか、その身をもってきっちりと確認すればいいのだ。
 滝を登りきれば、龍となる。
 流れの激しさに後悔しようと、登りきれなければ死ぬだけだ。
 
 新しいクラスと。
 さらに楽しむべきことが増えた。

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