ひなまつり
五節句のひとつ、"桃の節句"として知られる3月3日は、正式には「上巳(じょうし)の節句」といいます。これは、古来中国から伝わった3月の初めの巳(み)の日という意味が込められています。
古くからの中国では、3月3日を悪日として、川辺に出て不浄を除くために水で清めるという風習がありました。なぜ悪日とされたのは、漢の時代に伝わるエピソードに由来しています。
その昔、徐肇(じょちょう)という人に女の3つ子が生まれましたが、3日後に3人とも亡くなりました。その嘆き悲しむ様子を見た同じ村の人たちが、3人の女児の亡骸を清め、水葬することによってお祓いをしました。
これが「上巳の祓(じょうしのはらえ)」という行事の始まりだとされています。
この習慣はやがて日本にも伝わります。
日本では、古来より人形(ひとがた)に不浄を託し、川や海に流して災厄を祓うという風習がありました。このふたつの文化が溶け合い、日本独自の行事として行われるようになったのが「流し雛」です。現在でも日本の各地で「流し雛」の習慣は残っています。
その「流し雛」が豪華になっていったのが、一般家庭に飾られるお雛様です。女の子の健やかな成長と幸せを願う両親の思いが込められています。
また、上巳の祓のための天児(あまがつ)・這子(ほうこ)といった人形とは別に、「ひひな遊び」のお人形というものがありました。平安時代の古典「源氏物語」に、貴族の少女たちが「ひいな遊び」をしている風景が登場しています。「枕草子」にも、描かれています。「ひひな」は、上巳の祓や3月3日とは関係なく幼女の遊び道具として存在していました。
この「ひとがた」と「ひひな」が結びついて、現在の「お雛さま」が生まれました。
上巳の祓の人形と幼女の遊び道具の人形は、中世以降になると次第に立派なものとなります。捨てていた人形も「飾り雛」として造られるようになり、江戸時代になると、平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となってゆきました。
雛遊びが雛祭りと変化してゆくのは、江戸幕府が3月3日の節日を「五節句」のひとつに定めたことが最大の誘因でしょう。時代が進んで、上巳の祓の人形が保存されるようになり、3月3日に娘の幸福を願って人形を飾る風習がゆきわたってゆきます。
宝暦年間(1751〜1764)以降、京都から江戸への文化の移動に伴い、文化・文政年間(1804〜1830)ころには、京都とともに江戸にも雛人形を飾る風習が広まってゆきました。雛市なども隆盛となり、市民の間にも浸透していったのです。
それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和、そして現在へと盛んとなってゆきます。
さて、3月3日が"桃の節句"として知られるようになったのは季節が合っているから、という理由だけではありません。中国では、桃には悪霊や邪鬼を払う霊力があると考えられていたため、悪日から身を守る魔よけとして、桃の花が好んで飾られました。
また、中国では様々な書物に桃が神聖な果物として登場します。
例えば、「西遊記」では孫悟空が不老長寿の桃を食べたというエピソードがあります。
「三国志」の中では、劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ場所が桃の園でした。桃園結義(桃園に義を結ぶ)の故事として有名な場面です。
「桃花源記」に登場する「桃源郷」は、秦の世の戦乱を避け、桃に囲まれた別天地に隠れ、500年以上も平和に暮らしていた人々の理想郷の物語です。
五節句のひとつ、"桃の節句"として知られる3月3日は、正式には「上巳(じょうし)の節句」といいます。これは、古来中国から伝わった3月の初めの巳(み)の日という意味が込められています。
古くからの中国では、3月3日を悪日として、川辺に出て不浄を除くために水で清めるという風習がありました。なぜ悪日とされたのは、漢の時代に伝わるエピソードに由来しています。
その昔、徐肇(じょちょう)という人に女の3つ子が生まれましたが、3日後に3人とも亡くなりました。その嘆き悲しむ様子を見た同じ村の人たちが、3人の女児の亡骸を清め、水葬することによってお祓いをしました。
これが「上巳の祓(じょうしのはらえ)」という行事の始まりだとされています。
この習慣はやがて日本にも伝わります。
日本では、古来より人形(ひとがた)に不浄を託し、川や海に流して災厄を祓うという風習がありました。このふたつの文化が溶け合い、日本独自の行事として行われるようになったのが「流し雛」です。現在でも日本の各地で「流し雛」の習慣は残っています。
その「流し雛」が豪華になっていったのが、一般家庭に飾られるお雛様です。女の子の健やかな成長と幸せを願う両親の思いが込められています。
また、上巳の祓のための天児(あまがつ)・這子(ほうこ)といった人形とは別に、「ひひな遊び」のお人形というものがありました。平安時代の古典「源氏物語」に、貴族の少女たちが「ひいな遊び」をしている風景が登場しています。「枕草子」にも、描かれています。「ひひな」は、上巳の祓や3月3日とは関係なく幼女の遊び道具として存在していました。
この「ひとがた」と「ひひな」が結びついて、現在の「お雛さま」が生まれました。
上巳の祓の人形と幼女の遊び道具の人形は、中世以降になると次第に立派なものとなります。捨てていた人形も「飾り雛」として造られるようになり、江戸時代になると、平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となってゆきました。
雛遊びが雛祭りと変化してゆくのは、江戸幕府が3月3日の節日を「五節句」のひとつに定めたことが最大の誘因でしょう。時代が進んで、上巳の祓の人形が保存されるようになり、3月3日に娘の幸福を願って人形を飾る風習がゆきわたってゆきます。
宝暦年間(1751〜1764)以降、京都から江戸への文化の移動に伴い、文化・文政年間(1804〜1830)ころには、京都とともに江戸にも雛人形を飾る風習が広まってゆきました。雛市なども隆盛となり、市民の間にも浸透していったのです。
それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和、そして現在へと盛んとなってゆきます。
さて、3月3日が"桃の節句"として知られるようになったのは季節が合っているから、という理由だけではありません。中国では、桃には悪霊や邪鬼を払う霊力があると考えられていたため、悪日から身を守る魔よけとして、桃の花が好んで飾られました。
また、中国では様々な書物に桃が神聖な果物として登場します。
例えば、「西遊記」では孫悟空が不老長寿の桃を食べたというエピソードがあります。
「三国志」の中では、劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ場所が桃の園でした。桃園結義(桃園に義を結ぶ)の故事として有名な場面です。
「桃花源記」に登場する「桃源郷」は、秦の世の戦乱を避け、桃に囲まれた別天地に隠れ、500年以上も平和に暮らしていた人々の理想郷の物語です。
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