学級通信25号ロングサイズ。
2004年6月18日 学校・勉強せきねの立つところは
来週からいよいよ保護者会週間である。
面談というものはエネルギーが要るもので、「三者面談で」と言った担任のせきねでも少々ドキドキする。保護者の方々もそうかもしれないし、生徒諸君が「えー」とか「いやだなあ」とか言う声も聞いた。もっともなことだとも思う。
ただ、「緊張感を持って過ごす時間」は非常に大事なので、今回の面談もぜひ前向きにとらえてほしいと思っている。
面談に際して、せきねはどんなところ(=教員としての立脚点)からモノを言い、仕事をしているかを今回は述べたい。
「良い」と思ったことは、とにかくやってみる。
他と違っていても、やってみる。
ここらへんが、良くも悪くもせきねがせきねである"ゆえん"だろうと思う。
人間は、ひとりとして同じ人間は居ない。
当たり前だ。
そうしたら、千差万別のひとりひとりが集まった「クラス」というものも、ひとつとして同じクラスは無いのではないか。
ならば、合わせるべきことは合わせるとしても、クラスの運営はそれぞれ違っていてむしろ当たり前なのではないかと思う。
だから、「他のクラスとちがう」と言われたとき、正直、あまりピンと来ない。
たとえば学級通信で何を伝えるか、また、どれだけ出すか、それはそのクラスによって違うだろう。多く出せば良い、ってものでもない。
ただ、せきねは確実に伝えたいことは文章にするべきだと思う。だから予定を書く。
そして、毎日弁当を用意するなど、大変な思いをして生徒諸君を学校へ通わせている保護者の方々に、その様子を理解してもらえるよう、イベントについても書く。
さまざまなことを実際に語り始めると長くなってしまうから、言いたいことは書く。
「生活記録」も「ただ提出するだけ」ではあまり意味がないような気がしたので、きちんと書くことを求めている。"とにかく4行書く"ことから、生まれてくるものが絶対あるからだ。さらっとあるレベル以上の文を書く能力や、毎日持続する能力などである。
おまけに、どの先生も使っていない赤鉛筆でコメントを書く。これは赤ペンでは濡れた時ににじんでしまうかもしれないことと、日々の生活を書きつづるには、昔ながらの赤鉛筆のような、ある種の素朴さが要るのではないかと考えていることによる。
1100人の中学生・高校生の姿を見てきたことからの思考・発言。
「1100人」とはせきねが今まで責任を持って授業を担当し、その結果として評価・成績を出した生徒の人数。(これに、かつて塾の講師だった時に勉強を教えた子や、授業を担当していないが知っている生徒などを足すともっと人数は増える。しかし本当に責任を持っていたかというとせきねの心ひとつになってしまうので、いちおう数に含めないこととする。)
どんなことをしていた生徒がどんなふうに変わっていったか、せきねは見続けてきた。
「だんだん成績が上がっていった生徒」「成績が下がっていった生徒」「学校生活から心が離れていった生徒」「学校の外で活躍していた生徒」さまざまである。
多分に直感的だが、「これは良い」「これは悪い」「今後どうなりそうか」ということは言えるような気がしてきた。
仕事関連の本をそれなりに買う。勉強会にはそれなりに出る。
「本を見つける」というのはけっこう難しく、一度見過ごすと二度と見つけだせない場合もあったりする。「ああ、あの本買っておけばよかったな」なんて思った時は何度もある。給料をもらって仕事をするまでは、もちろん持っている小遣いは知れたものだったから、ずいぶんくやしい思いもしたし、なんとか小遣いを節約しようともした。
笑い話なのだが、御茶ノ水・神保町あたりはたくさんの本屋がある。しかし、なにぶんにも交通費がかかった(実家は埼玉県の某市)。だからそれを節約しようと自転車で出かけた時がある。夏休み、チャリをキコキコ、片道3時間かかった。……無謀だったなあ。
朝から晩まで教員として仕事をするようになって半年くらい経ったころ、「これはまずい」と思った。
生徒たちの顔に、やたらとクエスチョンマークが浮かんでいるのに気付いたのである。
教員は、学生でもないし、学者でもなかった。
「自分の勉強ができるようになる能力」ではなくて、「生徒に勉強する内容をうまく伝える能力」や「生徒が勉強をできるようになる能力」が必要であることに、そのころになって気が付いたのであった。
「自分がやる」なら、ある意味ラクなのである。
「他人がやるようになる」 これはものすごく難しい。
どうしたらいいものか、考え込んでいても全く解決しなかった。だから目につく限りの本屋に行った。気付けば、買った本を入れた紙袋を両手に提げて家に帰るようになっていた。
今では、定期購読をしている教育系雑誌は6冊。毎月の本代は多分4万を超える。
そこで知った、おもしろそうだと思った勉強会にも参加するようになった。
(それでもなかなか、自分が良くなったとは思えないのではあるが。)
我ながら買いすぎかな、とも思ったが、自分の趣味に毎月何万かを投じる大人はたくさんいるし、本を読むのが好きな人も多い。買い物が好きな人だってたくさんいる。
自分から進んで仕事をするのが楽しいのだって、ごく普通だ。
よくやるねぇ、と感心されたこともあるけれど、これがエライんだったら、昼休みに部活の練習をするのはもっとエライ。学校の他にピアノのレッスンをしたり、サッカーチームに入ってがんばる中学生は、ホントスゴイじゃないか。
まあともかく、せきねはたまたま仕事に対してのこだわりを見出し始めて、それをしんどいと同時に楽しいとも思っている。
今ひとつなことも多いとは思う。
けれど山登りみたいなもので、あきらめないで歩き続ければ、いつかは頂上にたどり着けるだろう。
けっこうしょうもない性格のせきねがそうならば、もっとまともな(=能力のある)人たち、この学校の生徒たちや各ご家庭は、もっともっとスゴクなることができるはずだ。
そう考えて、きっちりとした交流を持つことができる面談にしたいと思っている。
来週からいよいよ保護者会週間である。
面談というものはエネルギーが要るもので、「三者面談で」と言った担任のせきねでも少々ドキドキする。保護者の方々もそうかもしれないし、生徒諸君が「えー」とか「いやだなあ」とか言う声も聞いた。もっともなことだとも思う。
ただ、「緊張感を持って過ごす時間」は非常に大事なので、今回の面談もぜひ前向きにとらえてほしいと思っている。
面談に際して、せきねはどんなところ(=教員としての立脚点)からモノを言い、仕事をしているかを今回は述べたい。
「良い」と思ったことは、とにかくやってみる。
他と違っていても、やってみる。
ここらへんが、良くも悪くもせきねがせきねである"ゆえん"だろうと思う。
人間は、ひとりとして同じ人間は居ない。
当たり前だ。
そうしたら、千差万別のひとりひとりが集まった「クラス」というものも、ひとつとして同じクラスは無いのではないか。
ならば、合わせるべきことは合わせるとしても、クラスの運営はそれぞれ違っていてむしろ当たり前なのではないかと思う。
だから、「他のクラスとちがう」と言われたとき、正直、あまりピンと来ない。
たとえば学級通信で何を伝えるか、また、どれだけ出すか、それはそのクラスによって違うだろう。多く出せば良い、ってものでもない。
ただ、せきねは確実に伝えたいことは文章にするべきだと思う。だから予定を書く。
そして、毎日弁当を用意するなど、大変な思いをして生徒諸君を学校へ通わせている保護者の方々に、その様子を理解してもらえるよう、イベントについても書く。
さまざまなことを実際に語り始めると長くなってしまうから、言いたいことは書く。
「生活記録」も「ただ提出するだけ」ではあまり意味がないような気がしたので、きちんと書くことを求めている。"とにかく4行書く"ことから、生まれてくるものが絶対あるからだ。さらっとあるレベル以上の文を書く能力や、毎日持続する能力などである。
おまけに、どの先生も使っていない赤鉛筆でコメントを書く。これは赤ペンでは濡れた時ににじんでしまうかもしれないことと、日々の生活を書きつづるには、昔ながらの赤鉛筆のような、ある種の素朴さが要るのではないかと考えていることによる。
1100人の中学生・高校生の姿を見てきたことからの思考・発言。
「1100人」とはせきねが今まで責任を持って授業を担当し、その結果として評価・成績を出した生徒の人数。(これに、かつて塾の講師だった時に勉強を教えた子や、授業を担当していないが知っている生徒などを足すともっと人数は増える。しかし本当に責任を持っていたかというとせきねの心ひとつになってしまうので、いちおう数に含めないこととする。)
どんなことをしていた生徒がどんなふうに変わっていったか、せきねは見続けてきた。
「だんだん成績が上がっていった生徒」「成績が下がっていった生徒」「学校生活から心が離れていった生徒」「学校の外で活躍していた生徒」さまざまである。
多分に直感的だが、「これは良い」「これは悪い」「今後どうなりそうか」ということは言えるような気がしてきた。
仕事関連の本をそれなりに買う。勉強会にはそれなりに出る。
「本を見つける」というのはけっこう難しく、一度見過ごすと二度と見つけだせない場合もあったりする。「ああ、あの本買っておけばよかったな」なんて思った時は何度もある。給料をもらって仕事をするまでは、もちろん持っている小遣いは知れたものだったから、ずいぶんくやしい思いもしたし、なんとか小遣いを節約しようともした。
笑い話なのだが、御茶ノ水・神保町あたりはたくさんの本屋がある。しかし、なにぶんにも交通費がかかった(実家は埼玉県の某市)。だからそれを節約しようと自転車で出かけた時がある。夏休み、チャリをキコキコ、片道3時間かかった。……無謀だったなあ。
朝から晩まで教員として仕事をするようになって半年くらい経ったころ、「これはまずい」と思った。
生徒たちの顔に、やたらとクエスチョンマークが浮かんでいるのに気付いたのである。
教員は、学生でもないし、学者でもなかった。
「自分の勉強ができるようになる能力」ではなくて、「生徒に勉強する内容をうまく伝える能力」や「生徒が勉強をできるようになる能力」が必要であることに、そのころになって気が付いたのであった。
「自分がやる」なら、ある意味ラクなのである。
「他人がやるようになる」 これはものすごく難しい。
どうしたらいいものか、考え込んでいても全く解決しなかった。だから目につく限りの本屋に行った。気付けば、買った本を入れた紙袋を両手に提げて家に帰るようになっていた。
今では、定期購読をしている教育系雑誌は6冊。毎月の本代は多分4万を超える。
そこで知った、おもしろそうだと思った勉強会にも参加するようになった。
(それでもなかなか、自分が良くなったとは思えないのではあるが。)
我ながら買いすぎかな、とも思ったが、自分の趣味に毎月何万かを投じる大人はたくさんいるし、本を読むのが好きな人も多い。買い物が好きな人だってたくさんいる。
自分から進んで仕事をするのが楽しいのだって、ごく普通だ。
よくやるねぇ、と感心されたこともあるけれど、これがエライんだったら、昼休みに部活の練習をするのはもっとエライ。学校の他にピアノのレッスンをしたり、サッカーチームに入ってがんばる中学生は、ホントスゴイじゃないか。
まあともかく、せきねはたまたま仕事に対してのこだわりを見出し始めて、それをしんどいと同時に楽しいとも思っている。
今ひとつなことも多いとは思う。
けれど山登りみたいなもので、あきらめないで歩き続ければ、いつかは頂上にたどり着けるだろう。
けっこうしょうもない性格のせきねがそうならば、もっとまともな(=能力のある)人たち、この学校の生徒たちや各ご家庭は、もっともっとスゴクなることができるはずだ。
そう考えて、きっちりとした交流を持つことができる面談にしたいと思っている。
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