学級通信23号予定。
2004年6月17日 学校・勉強 仕事場にメモリースティックを置いてきてしまい、自宅で学級通信の原稿を書いてからそれに気付いた。
どうするべよ、と思ったのは一瞬。
ココにアップしとけばいいじゃん。
そうして仕事場でwebページ見ればいいし。
↑ホントかよ(笑)
=============================
想う
少年が中学1年だった夏休み、日本は負けた。
五木寛之は福岡県に生まれたが、教員であった両親の仕事の関係で、当時日本の植民地だった朝鮮半島で育った。
各地に転校を繰り返しながら小学校時代を過ごしたという。
昭和20年4月、彼は平壌で中学校に入学した。
8月6日の広島に続き、9日には長崎へ原爆が落とされた。その同じ日にロシア(当時はソビエト連邦)が日本への戦争に加わった。これにより8月15日には日本は無条件降伏し、第二次世界大戦は終結した。
日本の植民地となっていた地域に住んでいた人たちは、そこからが苦難の始まりだった。朝鮮にいた五木寛之とその家族たちもそうであった。
9月、ソビエト連邦の軍隊が平壌にやって来て、朝鮮の分割をしたのである。
その混乱のさなか、彼は44歳の母を亡くした。
僕も子ども心に覚えていますけれども、母が亡くなったときも、お湯をたらいに入れ、やせて三分の一ぐらいになった体をタオルでみんながふいてあげたのです。そのように死の儀式を家族の手で行うことにより、死んでゆく、滅びてゆく肉体というものを手で触るように、子ども心ながらに感じたものです。(教科書80ページ)
さらにそれとほぼ同時に、父親も虚脱状態に陥ったらしい。
当時さまざまな人たちが、戦争の終わりによってそれまで耐えに耐えてきたことが消え去って混乱したという。さらに、教員として戦争に協力する教育をしてきたことへの悔いや、妻を失ったことへの悲しみなどが原因だったのだろう。
母は亡くなり、父は心を失ってしまった。
さらに弟と妹がいる。
13歳の中学生が、そういう家族を背負うことになったのである。
50巻近くの全集がある五木寛之は、しかしこの頃のことをほとんど書いていない。
やって来た軍隊によって、北朝鮮に留め置かれることとなってしまった家族は、1年後に軍隊のトラックを買収して平壌を脱出。38度線を越えてアメリカ軍の日本人難民キャンプに収容された。
14歳のうちはキャンプで過ごし、15歳になったころ、福岡県に戻ってきた。
そういう中学時代を過ごしてきた五木寛之は、こう述べている。
人間は泣きながら生まれてきて、重い重い宿命を背負いながら、それをはね返し、はね返し、生きている。これ以上、その人間に何を要求することがあるだろうか。失敗した人生もあるであろう。平凡な人生もあるであろう。成功した人生もあるであろう。しかし、どの人間もみんなそのように与えられた生命というものを必死で戦って生きてきた一人の人間なのです。(教科書82ページ)
1)保護者の方は「なんなんだ?」と思われるかもしれませんが、これがテスト明けから勉強している、『想う』という単元です。10年ほど前に有名だった『生きるヒント』という本の、最後の章です。 個人的には、中学生の時点にして大人にならねば生きていけなかった人の文章、そういう見方もできるような気がしています。
どうするべよ、と思ったのは一瞬。
ココにアップしとけばいいじゃん。
そうして仕事場でwebページ見ればいいし。
↑ホントかよ(笑)
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想う
少年が中学1年だった夏休み、日本は負けた。
五木寛之は福岡県に生まれたが、教員であった両親の仕事の関係で、当時日本の植民地だった朝鮮半島で育った。
各地に転校を繰り返しながら小学校時代を過ごしたという。
昭和20年4月、彼は平壌で中学校に入学した。
8月6日の広島に続き、9日には長崎へ原爆が落とされた。その同じ日にロシア(当時はソビエト連邦)が日本への戦争に加わった。これにより8月15日には日本は無条件降伏し、第二次世界大戦は終結した。
日本の植民地となっていた地域に住んでいた人たちは、そこからが苦難の始まりだった。朝鮮にいた五木寛之とその家族たちもそうであった。
9月、ソビエト連邦の軍隊が平壌にやって来て、朝鮮の分割をしたのである。
その混乱のさなか、彼は44歳の母を亡くした。
僕も子ども心に覚えていますけれども、母が亡くなったときも、お湯をたらいに入れ、やせて三分の一ぐらいになった体をタオルでみんながふいてあげたのです。そのように死の儀式を家族の手で行うことにより、死んでゆく、滅びてゆく肉体というものを手で触るように、子ども心ながらに感じたものです。(教科書80ページ)
さらにそれとほぼ同時に、父親も虚脱状態に陥ったらしい。
当時さまざまな人たちが、戦争の終わりによってそれまで耐えに耐えてきたことが消え去って混乱したという。さらに、教員として戦争に協力する教育をしてきたことへの悔いや、妻を失ったことへの悲しみなどが原因だったのだろう。
母は亡くなり、父は心を失ってしまった。
さらに弟と妹がいる。
13歳の中学生が、そういう家族を背負うことになったのである。
50巻近くの全集がある五木寛之は、しかしこの頃のことをほとんど書いていない。
やって来た軍隊によって、北朝鮮に留め置かれることとなってしまった家族は、1年後に軍隊のトラックを買収して平壌を脱出。38度線を越えてアメリカ軍の日本人難民キャンプに収容された。
14歳のうちはキャンプで過ごし、15歳になったころ、福岡県に戻ってきた。
そういう中学時代を過ごしてきた五木寛之は、こう述べている。
人間は泣きながら生まれてきて、重い重い宿命を背負いながら、それをはね返し、はね返し、生きている。これ以上、その人間に何を要求することがあるだろうか。失敗した人生もあるであろう。平凡な人生もあるであろう。成功した人生もあるであろう。しかし、どの人間もみんなそのように与えられた生命というものを必死で戦って生きてきた一人の人間なのです。(教科書82ページ)
1)保護者の方は「なんなんだ?」と思われるかもしれませんが、これがテスト明けから勉強している、『想う』という単元です。10年ほど前に有名だった『生きるヒント』という本の、最後の章です。 個人的には、中学生の時点にして大人にならねば生きていけなかった人の文章、そういう見方もできるような気がしています。
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