何故にせきねは語るか
 
 
 大学に入ってしばらくして、小学3年生の家庭教師をすることになった。
「私立受験を考えて、塾に行き始めた。勉強に遅れないようにしたい」ということだった。中学受験でとても有名な塾だった。
 せきねは家庭教師として4教科全部を教えた。テキストはその塾のもの。その子には理解が難しそうな表現は改め、類似問題を考え出して解いた。
 少し勉強したら、「わかる」ようになった。それがさらに呼び水となって、彼はその塾の中でもどんどん成績が上がっていった。
 ものすごく集中して勉強し、休憩になるとぱっと遊んだ。彼の部屋には対戦型ゲームがあって、せきねはコントローラーごと体を動かしてよく笑われた。
 6年生の2月まで家庭教師は続き、本人とその家庭の志望どおりに、当時「御三家」と呼ばれる中高一貫の男子校に合格し、そこに通うこととなった。父母も本人も、そしてもちろんせきねも、大いに喜んだ。
 
 
 希望に満ちた中学生活の出発。
 物語ならば、話はそこで終わる。
 
 けれど、人生は物語ではなかった。
 
 
 その子は、言われたことはきちんとやることができる、とても素直な子だった。逆に、自分で考えて動くのには、少し時間を必要としたところがあった。
 通い始めたのは、ものすごい人数が東京大学に進学する学校。あっという間に授業が進んでいく。過ぎていく日々のめまぐるしさに、毎日つかれきっていたそうだ。
 そして受験が終わってから、彼の目の前には勉強量を支えてくれる有名塾も、時にはいっしょに遊んだりしてくれる家庭教師も存在しなかった。

 何をどうしていいのか判らない。
 迷いからか、いつしか煙草に手を伸ばすようになったらしい。
 
 家と学校とは、彼にはあまりにも遠かった。だから、下校時に寄り道をするようになった。ゲームセンターにいれば、一時的に心のもやもやを感じずにすんだ。けれどそのぶん、勉強からは遠ざかる。あっという間に学校との心の距離は遠ざかっていった。
 
 いつしか、家を普通に出ても、学校にはやって来ない日が重なっていった。
 家庭では、彼がかつてのまじめで素直だった時を信じ、ただ「信じる」以外には何の策も持たなかった。誰にも助けを求めず、保護者として全力で対決することもなかった。

 「進級することも危ういんです」
 何年か経った2月の末に、その家庭から連絡を受けてとにかく会うしかないと思って駆けつけた。
 けれど、何もできなかった。
 その子のノートは、最初の数ページで止まっていた。
 担当している教員がどういう性格でどんな授業をするか尋ねてみても、まったく要領を得なかった。
 「すみません。わたしにも何もできません」と言った。
 そう言うしかなかった。
 「前はあんなに教えてくれたじゃないですか」と彼の母上から言われたときの、身を斬られるような気持ちは今も忘れることができない。
 
 
 その家を辞去して夜道を最寄り駅まで歩く途中、悔しくて悔しくてならなかった。
 
 どうして彼に、勉強以外のことをもっともっと語らなかったか。
 どうしてあのゆるやかすぎる家庭に、率直な指摘をしなかったか。
 
 その時、思った。
 教育に関わる限り、妥協をするまい。
 ただ「その場」だけではなく、先を考えて、なけなしの力を尽くしていこう。
 
 
 せきねが、最初に担当した生徒の話である。
 
 
 だから、わたしはきみたちを楽にしないし、自由にもしない。

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