ここでは初出なので、いちおう。
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諸葛孔明
三国時代の知謀の士として名高い諸葛亮は、字を孔明といい、蜀の劉備に仕えた。当時、諸葛家は中国東部の名家であり、次男として生まれた彼は、"宝石のきらめくさま"という意味の"亮"という名を与えられた。
のちに成人した諸葛亮は、"とてもあかるい"という意の"孔明"と名乗る。
曹操の大虐殺によって故郷を追われ、乱戦の中に父を失い、一族が中国全土に別れて暮らすようになったなかで、自らの決意を字に託したのかもしれない。
乱世に輝く光となろう、と。
当時の中国は天災・人災ともにすさまじいものだった。
「イナゴの飛来によって作物も何もかもを失った家族が、たがいに幼児を取り替えた。もはや人肉以外に食べるものが無く、家族を殺すにはあまりにも哀れだったからである。」
「曹操は父親の仇と称して徐州で大殺戮を行った。軍が通った後には何もかもが殺戮され、鶏や犬の鳴く声さえ消えた。川には殺された人々が浮かび、そのあまりにも多い死体のために川の流れが止まったほどであった。」
戦乱を荊州で避けながら、諸葛孔明は中国に一刻も早い平和をもたらす手段を考えた。
たくさんの英雄の中で最も優勢な曹操でさえ、中国を統一できるかどうか微妙なところである。これが二大国でも戦争は続くだろう。しかし、もし三つの国が「三すくみ」になったら、お互いの緊張状態が続くとしても、戦乱が遠のくのではないか。
こうして、「天下三分の計」が諸葛孔明の持論となる。
北の曹操、東南の孫権、そしてあとひとりの英雄は。
若き諸葛孔明の知謀を知って、熱心に通ってくる劉備という歴戦の英雄がいた。
晩年の諸葛孔明は、このころを振り返って『出師表』に書き残している。
「先帝陛下(劉備)は私を身分いやしい若造だとは思わず、自ら三回も粗末な家まで訪問なさりました。そして私を天下の偉材と考えて、"この乱世をどうしたらよいか"をお聞きになったのです。私はここに感激いたしまして、先帝陛下のもとに奔走することを誓ったのです」
以来、多くの将軍や軍師や、劉備までも世を去っていくなかで、諸葛孔明はひたすらつつしみ深く蜀の国を支え続けたのである。本来は政治で最大の能力を発揮したのであろうが、不得意であった軍事でも、些細なことから大事まで、彼は謹厳に激務をこなしていった。
諸葛孔明と対決していた、魏の国の司馬懿が、彼の激務ぶりを聞いてあざわらった。
「そのようなことまでやっていては、あやつも永くあるまいて」
おそらく司馬懿の考えたことは諸葛孔明も気付いていたはずである。しかし、劉備の後を継ぎつつも愚かであった皇帝の劉禅や、不満屋の将軍たちには、「戦乱の終わりを」「少しでも平和な時代を」という自身の大目的を分かち合えなかったのだろう。
かくて諸葛孔明は司馬懿との対戦中、五丈原の地で過労に倒れる。そしてそのまま世を去った。その後、強敵の消え去った司馬懿は魏国の乗っ取りをたくらんで、諸葛孔明という柱のなくなった蜀の国は、もはや滅ぶのを待つばかりとなってしまったのである。
陳寿は、歴史書『三国志』で、諸葛孔明のことをこう記す。
「諸葛孔明には、軍事的な才能はやや少なかったかもしれない。しかしその至誠は万人の広く知るところであり、厳しい法律を実施してもみな彼を尊敬し愛した。また、諸葛孔明によって処罰された者でさえ、彼の死を知って痛切に悲しんだほどであった」
ずっと後になって、諸葛孔明は講談の中に蘇り、最高峰の軍師として英雄たちとともに三国志の世界で大活躍する。
"とてもあかるい"の意味、そのままに。
そして今もなお『三国志演義』で、諸葛孔明の誠実さは多くの日本人を魅了しているのである。
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帰りの会が終わってすぐに、勉強にあまり関心のない男子たちが集まって三国志の話を聞きたがっていたのが印象的であった。
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諸葛孔明
三国時代の知謀の士として名高い諸葛亮は、字を孔明といい、蜀の劉備に仕えた。当時、諸葛家は中国東部の名家であり、次男として生まれた彼は、"宝石のきらめくさま"という意味の"亮"という名を与えられた。
のちに成人した諸葛亮は、"とてもあかるい"という意の"孔明"と名乗る。
曹操の大虐殺によって故郷を追われ、乱戦の中に父を失い、一族が中国全土に別れて暮らすようになったなかで、自らの決意を字に託したのかもしれない。
乱世に輝く光となろう、と。
当時の中国は天災・人災ともにすさまじいものだった。
「イナゴの飛来によって作物も何もかもを失った家族が、たがいに幼児を取り替えた。もはや人肉以外に食べるものが無く、家族を殺すにはあまりにも哀れだったからである。」
「曹操は父親の仇と称して徐州で大殺戮を行った。軍が通った後には何もかもが殺戮され、鶏や犬の鳴く声さえ消えた。川には殺された人々が浮かび、そのあまりにも多い死体のために川の流れが止まったほどであった。」
戦乱を荊州で避けながら、諸葛孔明は中国に一刻も早い平和をもたらす手段を考えた。
たくさんの英雄の中で最も優勢な曹操でさえ、中国を統一できるかどうか微妙なところである。これが二大国でも戦争は続くだろう。しかし、もし三つの国が「三すくみ」になったら、お互いの緊張状態が続くとしても、戦乱が遠のくのではないか。
こうして、「天下三分の計」が諸葛孔明の持論となる。
北の曹操、東南の孫権、そしてあとひとりの英雄は。
若き諸葛孔明の知謀を知って、熱心に通ってくる劉備という歴戦の英雄がいた。
晩年の諸葛孔明は、このころを振り返って『出師表』に書き残している。
「先帝陛下(劉備)は私を身分いやしい若造だとは思わず、自ら三回も粗末な家まで訪問なさりました。そして私を天下の偉材と考えて、"この乱世をどうしたらよいか"をお聞きになったのです。私はここに感激いたしまして、先帝陛下のもとに奔走することを誓ったのです」
以来、多くの将軍や軍師や、劉備までも世を去っていくなかで、諸葛孔明はひたすらつつしみ深く蜀の国を支え続けたのである。本来は政治で最大の能力を発揮したのであろうが、不得意であった軍事でも、些細なことから大事まで、彼は謹厳に激務をこなしていった。
諸葛孔明と対決していた、魏の国の司馬懿が、彼の激務ぶりを聞いてあざわらった。
「そのようなことまでやっていては、あやつも永くあるまいて」
おそらく司馬懿の考えたことは諸葛孔明も気付いていたはずである。しかし、劉備の後を継ぎつつも愚かであった皇帝の劉禅や、不満屋の将軍たちには、「戦乱の終わりを」「少しでも平和な時代を」という自身の大目的を分かち合えなかったのだろう。
かくて諸葛孔明は司馬懿との対戦中、五丈原の地で過労に倒れる。そしてそのまま世を去った。その後、強敵の消え去った司馬懿は魏国の乗っ取りをたくらんで、諸葛孔明という柱のなくなった蜀の国は、もはや滅ぶのを待つばかりとなってしまったのである。
陳寿は、歴史書『三国志』で、諸葛孔明のことをこう記す。
「諸葛孔明には、軍事的な才能はやや少なかったかもしれない。しかしその至誠は万人の広く知るところであり、厳しい法律を実施してもみな彼を尊敬し愛した。また、諸葛孔明によって処罰された者でさえ、彼の死を知って痛切に悲しんだほどであった」
ずっと後になって、諸葛孔明は講談の中に蘇り、最高峰の軍師として英雄たちとともに三国志の世界で大活躍する。
"とてもあかるい"の意味、そのままに。
そして今もなお『三国志演義』で、諸葛孔明の誠実さは多くの日本人を魅了しているのである。
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帰りの会が終わってすぐに、勉強にあまり関心のない男子たちが集まって三国志の話を聞きたがっていたのが印象的であった。
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