自己を照らし出すものは持つべきだが、照らされた姿が良くなるようにのみ考えてしまうのは、違うと思う。

 鏡に映し出された容貌が自分の望み通りではないからと言って、顔の皮膚全部をはぎ取るような整形をするのならば、それは哀れだ。

 自分の長所を見出すことができなくて、ひたすら自己嫌悪に陥っているとする。
 それは「わたしってダメな子ね」などと言いながら目に星を浮かべて雰囲気に浸っている少女と相似してはいないか。

 自分の今の能力さえ充分に使いきることができない者が、仮に超能力を欲して、それを得られたとする。
 所詮、自らを従えられずに暴走せる奈落に行き着くであろう。

 幼児は汚い言葉を喜んで母親の前に陳列する。
 web日記はときに暴言の展示場となる。
 ともに求める物は同じ。他者の愛。
 ともに得る物も同じ。侮蔑と叱責。

 自分が余暇を楽しむために遊びがある。
 なのに、遊びがあるばかりに自分の身を削って苦しむのは本末転倒だ。

 セクシャルハラスメントとは「言動を受け取った側がどう感じたか」に拠るようだ。逆のベクトルである愛情も、「受け取った側」からの感じ方であろう。
 「これだけ尽くしたのに」と言いたくなる時がある。
 そう思った時、これは「相手への愛情」ではなく、「自己への愛情」だということなのかもしれぬ。

 ボランティアとは、余裕のある者が余裕のない者を援助することであって、余裕のある者をさらに楽にさせることではない。

 ゲームの始まりでよくある、「汝の名を示せ」とは、実はそれなりに深いものかもしれない。
 自分自身を語ることのできる者は、どれだけいるのだろう?

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